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2022年12月6日火曜日

彼は頑固で、すべてに本気だった。

仕事も、神輿担ぎも、中途半端には絶対しない。

彼が業界のリーダーをしていた頃は、他人の評判なんて気にしていなかった。自分が良いと思ったことは、全力で突っ走った。彼は私より攻撃的なポジションを取った。

彼に初めて出会ったのは、お互い40代前半の頃で、その時に「元早稲田のサッカー部だった」という話を聴いた。

あの何でも偉そうに話をする元日本代表監督の岡田武史氏をもっと偉そうに「おかだ」と呼び捨てにし、我がベガルタ仙台を初めてJ1に昇格させて仙台では清水大明神と崇められた清水秀彦氏を「やつ」と言い放った。

岡田氏は大学の後輩、清水氏は法政の同学年で、共に試合で戦っていた相手だったそうだ。

温泉で浴衣を着たとき、サッカ-で鍛えた脚を私にチラ見させながら「脚が太くて組めないんだよ」と呟いた、そんな微妙な彼の自慢話も笑顔とともに思い出す。

当然と言えば当然だが、彼は無類のサッカー好きだった。

彼は、日本代表がまだワールドカップに出場できない頃から、4年に1度世界中で開催されるワールドカップの大会を必ず観戦に行っていた。

日本代表が強くなった最近でこそワールドカップ観戦のために海外に行くサッカーファンが多くなったが、日本代表出場に関係なくずっと行っていたというのは、やはり普通じゃない。

今年のワールドカップは、日本代表が予選リーグでドイツを破り、スペインを破り、今朝未明に決勝トーナメントで前回準優勝したクロアチアと引き分けるという快挙を成し遂げた。クロアチアとはPK戦で負けたが、日本中が賞賛し歓喜している。

今年のワールドカップには彼にカタールまで連れて行ってもらうことになっていた。そして、この日本代表の快挙を目の前で一緒に観ることになったはずだった。

しかし、その約束も今年2月に叶わないことになってしまった。

あんなに楽しみにしていた彼は、この快挙をどこかで観ただろうか。

彼は風になったのだろうか。

あの頑固な彼には風は似合わない感じがするが、それでも軽やかな風になってカタールの空の上から、日本代表の偉業と、彼の大好きな世界中のサッカーチームの活躍を、まさに今、観ていることを強く祈りたい。
















2022年3月14日月曜日

震災復興応援試合について

東日本大震災の発生から3月11日で11年となりました。

今年もテレビやラジオで特集が組まれ、各地で多くのイベントが開催されました。

「震災を風化させない」「記憶をつなぐ」

とても大事なことです。

十年一昔と言いますが、東北でも一昔を超えて風化が始まっています。

その反面、まだまだ故郷に帰ることができない地域もあり、農業漁業では風評被害が収まっておらず、災害は継続しているとも言えます。

今被災中の人のためにも、そして今後起こりうる災害対応のためにも、決して忘れてはいけない教訓として、機会を捉えて、皆で語り継ぐべきだと思います。


大震災の直後から、家族も財産も奪われて下を向いている人々に何ができるのか、各界から様々な工夫がなされた支援やイベントが催されてきました。それらもずっと継続してくれています。被災地に住むものとして感謝しています。

正直に言えば、東日本大震災がらみのイベントや番組の中には、違和感を覚えるものもあります。でも、私は「やってくれるだけありがたい」と思うようにしています。

それすらやらなくなったら、震災は本当に忘れられてしまうからです。


ご存じの方も多いでしょうが、私は「ベガルタ仙台」の長年のサポーターです。

私は、あれだけの災害を受けた地域が立ち上がるための精神的な支えとして、スポーツも役に立ったと思っています。

特に震災後最初の試合となったアウェイの川崎フロンターレ戦では、試合内容だけではなく、試合前から川崎のサポーターがベガルタ仙台のチャント(応援歌)を歌い続けてくれて、涙が止まらなかったことを覚えています。

その川崎との試合も、その年の試合(J1四位)も、次の年の試合(J1準優勝)も、劣勢の中でも最後の1秒まで諦めずに前を向いて攻めていく姿勢が、被災の中で負けそうになる住民の心を奮い立たせる「希望の光」となったことは間違いないと思います。


さて、3月12日には、ともに被災地を拠点とするサッカーチームの「ベガルタ仙台」と「いわてグルージャ盛岡」による「震災復興応援試合」が開催されました。

この「震災復興応援試合」は毎年必ずこの時期に開催され、その相手は同じ東日本大震災の被災地を拠点とする「鹿島アントラーズ」や、阪神淡路大震災の被災地を拠点とする「ヴィッセル神戸」などと試合が組まれていました。

今年はJ2リーグなので、初めて岩手を拠点とする「いわてグルージャ盛岡」との試合が組まれました。

サッカー界も震災をなんとか忘れないように、風化させないようにしてくれているのだと思います。私はもちろん毎年観戦しております。

しかし、これにはずっと違和感がありました。

負けそうになっても最後の1秒まで戦う選手達の姿勢が被災地に勇気をもたらせていました。これがスポーツの力です。

ところがこの震災復興応援試合は、必ず被災地どおしの対戦が組まれています。試合だから被災地のどちらかは負けます。

スポーツは「負けそうでも最後まで諦めない」という考え方が力になるのだと思いますが、どちらかに「結局負けたのね」という結果を見せつけることにもなり、「これもどうかな」と思ってきました。

また、選手のほとんどは、東北出身でもなく震災を経験していない人たちです。その人たちに「決して負けられない」などと被災地の想いを背負わせすぎているとも思っておりました。

被災地で毎年この日を迎えるのにナーバスになっているから、こんなひねくれた考え方になるのでしょうか。

10年過ぎて初めて言います。


NHKより



2021年9月13日月曜日

W Eリーグ:女子サッカープロリーグ誕生

 東日本大震災のあった4か月後の2011年7月、ドイツ女子サッカー・ワールドカップで優勝を果たしました。大震災の直後明るいニュースとして日本中が湧きました。

決勝戦の延長戦で、宮間あやのコーナーキックから澤穂希のヒールによるボレーシュートは忘れられないゴールです。

優勝チームのゴールキーパーとして大活躍した海堀の言葉「私たちは国のために何かしたいと思っていた。自分たちのためだけにプレーしていたわけではなかった」は世界中に伝えられました。

あれから10年、今日2021年9月12日は、女子サッカープロリーグ(WEリーグ)の開幕した歴史的な日になりました。




ワールドカップで優勝を果たした日本の女子サッカーであっても、これまでは国内のリーグ(なでしこリーグ)はアマチュアのリーグでした。大半の選手はパートタイマーなどにより収入を得て、サッカーをするためにクラブに所属していました。だから生活のために、サッカーを続けられなかった人もいました。

しかし、今年この日本に「女子プロサッカー選手」という職業が確立されたのです。全国の多くの女子サッカー選手の未来が開ました。とても大きな出来事だと思います。

まだ観客は少ないですが、徐々に人気が出て、Jリーグのように定着してほしいと思います。

さて、そのW Eリーグに初年度登録されたチームは11チームです。その中に仙台をホームタウンとするチームがあります。「マイナビ仙台レディース」です。

開幕戦はホームで「ノジマステラ神奈川相模原」との戦いでした。お互いによく走り、良い試合だったと思います。結果は0:0の引き分けでした。



仙台ホームのプロスポーツチームがまた一つ誕生しました。

J リーグのベガルタ仙台、プロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルス、BJリーグの仙台89ers、そしてW Eリーグのマイナビ仙台。

チケット代で、小遣いがなくなるなぁ。


2017年9月18日月曜日

私のベガルタ仙台

週一のベガルタ仙台の試合が生活のリズムになっています。

週末の試合に参戦し、勝てば帰宅してから再度テレビで勝利を確認し、翌日のニュースやスポーツ新聞をニヤニヤしながら見て、素人分析をし、また2回ほど試合を反芻し、喜びの一週間を過ごすのです。
木曜日くらいに次の試合の分析をはじめ、時間があれば対戦相手の最近の試合を確認し、戦術を練ります。(渡邉監督が連絡くれたら、いくらでも相談にのるのですが)

負けたときは、2〜3日はテレビや新聞のスポーツ欄は見ません。
木曜日くらいから立ち直って次の試合の分析に入ります。

今週はどっちって? 聞くな。




1997年(平成9年)の仙台スタジアム誕生の頃から観戦し始めました。
当時はブランメル仙台というチーム名でした。
ブランメル(伊達男)仙台というネーミングは好きでしたが、J2リーグに参入する際に、商標権の関係でベガルタ仙台に変更になりました。
ベガルタは、仙台七夕にちなんで、ベガ(織り姫)とアルタイル(彦星)の造語です。
ちなみにチームカラーのあの色は、イエローではありません。ベガルタ・ゴールドです。

当時は弱かったです。
とてもとても弱かったです。
だから2001年にJ1に昇格したときには泣きました。
今J1リーグにいるだけでも、幸せを感じています。

今でも試合に負けただけではブーイングしません。
なにしろ日本代表選手がいないのですから。
監督の采配に文句言う人もいますが、戦術は結果論ですし、監督も含め成長過程だと考えています。
もちろんすべてに寛容な態度ではありません。
一生懸命なプレーに見えないときにはブーイングします。
(私が指導している新人調査士に対する態度も同じです)


ベガルタ仙台は、毎年最終節まで楽しませてくれます。
まったく強いのか弱いのか、安心させてくれません。
ツンデレの女と付き合っているような(経験無いけど)

J2にいるときは毎年昇格候補でドキドキし、J1にいれば毎年降格候補でハラハラし、2012年の最後まで優勝争いという信じられない年も含め、毎年消化試合が少ない最後まで楽しめるチームです。サポーター冥利に尽きます。


選手は移籍するけれど、サポーターは決して移籍しません。
スタンドで会う周りのサポーターの皆さんも、家族連れで20年も一緒に応援していますので、当時の赤ちゃんが成人しています。代々ベガルタ・サポーターという文化も仙台に根付いて来ました。

私も長く応援するでしょうし、アウェイ・ツアーが老後の楽しみにもなるでしょう。
いつまでも血気盛んなジイさんとしてスタジアムに通い、いつの日かホームのスタジアムで優勝を目の当たりにし、その喜びに包まれて、死ぬ.....

素晴らしいが、周りに迷惑か






2017年4月2日日曜日

春到来

4月1日、年度はじめの日。
とても嬉しいことがありました。

4月1日のベガルタ仙台のホームゲーム、対川崎フロンターレ戦でのこと。
いえ、勝ってないんです。
試合の内容は冬でした。(^^;)
そこじゃないんです。

東日本大震災以降初めて、土地家屋調査士のMさんに、スタジアムでご挨拶いただきました。
大震災前、Mさんは年間指定席を買って、毎試合ベガルタ仙台の応援をなさっていました。私もスタジアムでよくお目にかかっていました。

Mさんの事務所は女川町にありました。
女川町はご存知のとおり町の大半が被災した町です。
震災後、私が個人的に、定点観測で通っていた町でもあります。

2011年3月27日「26日女川支援に行ってきました」
2012年5月28日「女川被災建物滅失調査」
2012年6月17日「恵比寿様とお地蔵様にお願いしました」
2015年5月5日「初めての女川観光」 etc.

Mさんは、あの大震災の大津波で事務所も自宅も流されて、しばらく体育館などの避難所で過ごされて、その後「仮設住宅に入ることができた」と喜んでいた方です。

「先日仮設住宅から出ることができて、久しぶりにベガルタに来たんです」
て、おっしゃっていました。

これまでは、不自由な仮設住宅生活という物理的な問題だけではなく、精神的にもスタジアムに足が向かなかったのでしょう。

私のわずかな被災地の経験すら、どんなに言葉を尽くしてもなかなか伝わらないもので、ましてMさんの避難所や仮設住宅で何年も過ごした経験などは、被災地に住む私でも想像できないものがあったのでしょう。

「Mさんとご家族に春が来た」
なんて勝手に思って、嬉しくて、

次回の勝ち試合で、Mさんとハイタッチしたいと思いました。





以下女川町HPより

女川町の被害状況 

最大津波高14.8m:港湾空港技術研究所調査
浸水区域320 ha:国土交通省被災状況調査
被害区域240 ha:宮城県発表
人的被害町人口:10,014名(H23.3.11時点)
死者:574名(H27.3.1現在)
死亡認定者:253名(震災行方不明者で死亡届を受理された者)
住家被害数住宅総数:4,411棟
(一般的な家屋)被害総数:3,934棟(89.2%)
全壊:2,924棟(66.3%)
大規模半壊:149棟(3.3%)
半壊:200棟(4.6%)
一部損壊:661棟(15.0%)
避難状況最大25ヶ所 5,720名(H23.3.13時点)
二次避難延べ360名

2017年3月11日土曜日

オーラ〜輝き放つ空の下

あれから6年。
その前は何をしていたんだろうと思うくらい、この6年さまざまなことがありました。

東北の復興はどうなんだ?
聞かれることも少なくなりました。
聞かれても何と答えるのが正解なのかわかりませんが。

小学一年生が中学一年生になるくらいの6年です。
長いです。
地元の住民でも意識の中が風化している人も、戦いの真っ最中の人もいます。

かさ上げ地の宅造が完成しても、放射線量が落ちついたとしても、就職先や学校や商店が無いと、6年間の生活を捨てて、簡単に故郷に戻る決心がつきません。

地図上の位置は同じでも、コミュニティも含め故郷です。

 死者     15,893人
 行方不明者   2,554人 (警察庁3月1日現在)
 避難者   123,000人 (復興庁2月28日現在)

今後も、私のポジションで、東北の復興に長い支援をしていきたいと考えています。


さて、今日3月11日は 「東日本大震災・熊本地震災害 被災地復興支援」試合があります。
ユアテックスタジアム仙台で、ベガルタ仙台が、阪神淡路大震災の被災地のチームであるヴィッセル神戸と戦います。試合に先立ち黙祷があり、献花台や募金箱があります。
ベガルタ仙台の選手は6年前から被災地の希望の光となるべく戦っています。
復興支援にスポーツも意味があると思っています。


以下2011年3月20日にこのブログに書いた記事を再掲載します。

ベガルタ仙台築き上げよう
時を越えて 君と僕らの一番のメッセージ
オー仙台 We're Feelin' love together
輝き放つ空の下

ベガルタ仙台の応援歌「オーラ」です。
この歌は、ベガルタ仙台が勝った時にしか歌えない凱歌です。
ちなみに私の携帯電話の着信メロディでもあります。

ベガルタ仙台は、昨年やっとJ1に残留したチームです。
強豪チームではありません。
日本代表選手がたくさん所属しているチームではありません。
ただし、自分たちの理想とする闘い方「仙台スタイル」を持っています。
今日の勝ちだけのためではなく、「仙台スタイル」にこだわって試合に臨みます。
まあ、もう少し今日の勝ちだけも目指して欲しいところもあるのですが。(笑)
ですから昨年は「オーラ」を歌う機会は、比較的少なかったですね。

強豪チームに先取点をとられ苦しい展開の中、チームプレイで徐々に相手の攻撃を跳ね返し、最後に逆転勝利をしたときの「オーラ」は最高です。
レプリカユニフォームを着て、タオルマフラーを巻き、うれし涙で歌っています。

今回の大震災にも、打ち勝つにはチームプレイしかありません。
先取点を取られても、前を向きましょう。
今回の試合は時間制限がありません。
皆で与えられた各ポジションで頑張って、最後には「オーラ」を歌いましょう。



2016年8月21日日曜日

オリンピックと土地家屋調査士試験

連日、リオデジャネイロ・オリンピックでは、日本人選手の活躍が報道されています。
やはり、スポーツはリアルタイムで観たいものですので、翌日辛くなるのが分かっているのに、夜中に応援してきました。今は男子マラソンを見ながらこのブログを書いています。

オリンピック選手の悲喜こもごもについては、日本にいながら一緒に喜んで一緒に涙しています。
長い人生を賭けて鍛えてきた身心と技術のピークを、たった一瞬の競技時刻に合わせなければならないということは、とても難しいことで、ときに残酷な結果をみせることになりました。

そのオリンピックも明日で終幕です。私達の寝不足も少し解消されるでしょう。

さて、本日8月21日は年に一度の土地家屋調査士の筆記試験です。
土地家屋調査士の筆記試験は毎年8月の第3日曜日ですから、世間が夏休みを楽しんでいる時期が、受験生にとって最後の追い込みの時期なのです。
そして、この暑い時期のこの日に身心と頭脳のピークを合わせるということは、スポーツ選手の体調管理と同じ難しさがあります。

その受験生の皆さんも、今日の試験で一段落です。
一年間、本当にお疲れ様でした。
今週はゆっくり休んでください。

本当は11月の合格発表まで休みたいでしょうね。
でも、このブログで以前も書きましたが、一週間以上勉強を休んではいけません。
今月中には勉強を再開して、少しずつで良いから勉強を途切れさせないでください。

もちろん、筆記試験後の口述試験合格だけなら、何とでもなると思います。
問題はそこではありません。
試験合格が最終目的ではなく、皆さんは土地家屋調査士になりたいのでしょう。
口述試験が終わったら、その後には本格的なプロの専門家としての勉強が続きます。
試験合格だけでは何もできないことは、医者や弁護士など他の専門業界を見ても理解できることでしょう。
勉強を続ける癖を付けておかないと、将来専門家として成り立ちません。
皆さんは勉強を続けてきたのですから、せっかくのその習慣を消さないでください。
一度やめると再開することがとても辛いのです。

試験がやっと終わった日に野暮なことを言うようですが、それがプロの世界です。
そして、この世界は皆さんが望んでいた実力の世界のはずです。

オリンピック選手も、あれだけ過酷な試合の直後に「4年後の東京オリンピックを目指す」と言っています。
実力の世界とはそういうものです。

繰り返しますが、土地家屋調査士などの専門家は、絶対的な実力を付ければ勝ち残ることができる世界です。きれいごとではありません。本当に勉強が最高の営業なのです。

そして、土地家屋調査士の世界の金メダルは1人だけでないのです。
頑張って実力を付けていけば、皆が金メダルに手が届く世界です。
そこがオリンピックと違う点です。

皆さんの合格とその後の飛躍をお祈りしています。





2016年7月15日金曜日

マネー・ボール

我がベガルタ仙台は、今とても苦しんでいます。
選手層の薄さの中、多くの怪我人を抱えて、選手のやり繰りに苦労しています。
大金持ちのチームなら簡単に助っ人を呼んでくることができるのですが、我がチームは使えそうな選手を引き抜かれる方の逆の立場です。
豊富な選手を抱えて優勝を目指すチームと、現有戦力をやり繰りしながら上位を目指すチームでは、その戦略も異なるでしょう。

さて、大リーグでそんなお金のない弱小球団のGM(ゼネラルマネージャー)を主人公にした映画が「マネー・ボール」(2011)です。主人公はあのブラッド・ピットです。



野球選手が主人公でも監督が主人公でもなく、GMビリー・ビーン(ブラッド・ピット)が主人公の実話です。

ビリー・ビーンは、かつてニューヨーク・メッツから1巡目指名を受けたスター候補生だったのですが、結局成績が出せずに27歳で引退します。その後スカウトを経てオークランド・アスレチックスのGMになるのですが、そのアスレチックスは資金難で、優秀な選手を獲得することができず、当然弱いチームでした。
ビリーは、イエール大学卒業の野球経験のないピーター・ブランドに出会いました。ピーターは野球経験からくる勘や選手の見た目からの評価ではなく、各種統計から選手を客観的に評価するセイバーメトリクスを用いて、選手を評価する方法を提案しています。
この理論を採り入れたビリーは、他のベテランスカウト達の反対を押し切り、他球団から評価されていない選手を再評価し採用します。
監督とも対立し、四面楚歌の中、低予算でチームを改革しようとします。


この映画を観ていると、どうしても我がベガルタ仙台を考えてしまいます。
ベガルタ仙台も現役の日本代表もオリンピック代表もいません。
毎年、個人の能力というよりも、選手の組み合わせと戦術により戦っています。
それでも2012年にはJ1の首位を走っていました。
しかし、あと一歩というところでサンフレッチェ広島に逆転優勝をさらわれました。
「あの戦力のベガルタ仙台でJ1準優勝を果たしたことは立派」という言い方も誤りではないでしょう。
しかし、2位ではダメなんです。
優勝でないと誰も覚えてもくれません。

ビリーも同じでした。
優勝以外は満足しません。
だから勝つために周囲と対立してもこの改革を断行しました。
このプロセスを観て、選手でもなくGMが主人公のスポーツ映画で私は熱くなりました。

この映画は実話です。
実話を映画にするのは難しいです。
どこから始まりどこで終わるか、その切り取り方で物語が決まります。
また、物語なら「本当は結末をこうしたい」ということがあっても、実話だから改竄はできません。
その制約の中で、とても良い映画になったと思います。
むしろ、だからこそ説得力のある映画になったのでしょう。

実話だから結末もネタバレでは無いでしょう。
この改革は成果が出ます。
「一定の」成功もします。

そして、ビリーはその成果でボストン・レッドソックスからGMとして破格の条件で引き抜きを打診されます。豊富な資金のあるレッドソックスなら、この理論の実現を完成させられます。
さて、野球人の夢や思い込みを統計と数字で切り捨てながら、結果を求めて戦って来た男の選択は・・・。


この映画面白いです。
少なくてもスポーツ好きなら楽しめると思います。

なお、更に野球に興味のある方は、日ハムも採用したという「セイバーメトリクス」理論を調べてみてください。とても面白いですよ。





2016年2月28日日曜日

勇気と工夫と努力 そして愛 Jリーグ開幕

Jリーグが開幕しました。
例年よりも早い開幕ですが、サポーターとしてはまったく差し支えありません。

我がベガルタ仙台は、解説者達の戦前予想によると、J1下位のようです。
もう慣れています。
解説者とは、本当に何を見ているのでしょうか。
今年のベガルタ仙台は強いのに。

ひいき目ですか?
まあ、そうかもしれません。
スポーツを見るのに、肩入れするチームがなくて冷静に解説するなんて考えられません。

以前も書きましたが、サポーターは「ひいき」というより「愛」なんです。

試合で負けそうな展開になると途中で帰る人は、サポーターではありません。
どんな内容でも負ければブーイングする人も、サポーターではありません。

自分の息子が出ている試合で負けそうなときに帰る親がいますか。
最後まで見届けるでしょう。

強くなければ応援しないのなら、レアル・マドリードでも応援すれば良いでしょう。

我がチームの中に、選手の能力の中で最大の努力が見えたら、応援すべきでしょう。
もしかすると、我がチームの最大の努力でも勝てない相手がいるかもしれません。
それでも、勇気と工夫と努力で立ち向かっていく姿を応援に行くのでしょう。

私は土地家屋調査士業界の新人たちのサポーターでもあります。
そう思わなければ、私は「土地家屋調査士の新人たちや、これから土地家屋調査士を目指す人たちのための研修がライフワーク」なんて言えません。

能力が無いなかでも勇気を持って工夫して努力を続ける限り応援します。
小手先でごまかしている新人にはブーイングします。

私は、「弱い人間や組織がどうすればジャイアントキリングができるか」を長年考えてきました。
新人も組織も、必要な事は「勇気と工夫と努力」です。
そして「愛」あるサポートも欲しいですね。


えっ、ベガルタ仙台は勝ったかって?
だから、我がベガルタ仙台は強いんですって。
すでに昨日の試合の録画を3回見ました。

今年もまた忙しくなりますねぇ。



ベガッ太 2016マスコット総選挙1位獲得!












2015年10月16日金曜日

ベガルタ仙台サポーターである幸せ

このブログを昔から読んでくださっている方はご存知かもしれませんが、私はベガルタ仙台サポーターです。

以前、日本土地家屋調査士会連合会(日調連)の会報で、全国の会長のプロフィールを掲載することがあり、アンケートが来ました。
その中に私の座右の銘とか趣味とかを書く欄がありました。
趣味といえば当然これだと思い「ベガルタ仙台試合参戦」と書きました。

数日後、日調連の事務局が気を利かせて「「ベガルタ仙台試合観戦」ではありませんか?」と宮城会の事務局に問い合わせが来ました。
宮城会の事務局は、私のことを良く知っているので「おそらく「参戦」で良いと思いますよ」と答えてくれたのですが、真面目な日調連の担当者は「念のために確認してください」と納得されなかったようです。

気持ちは分かります。普通は「観戦」でしょう。
でも私のベガルタ愛には「観戦」なんて他人事は有り得ません。
間違いなく毎試合、私も「参戦」しているのです。
日調連会報の宮城会会長の趣味の欄は結局「参戦」で載りました。

さてこのベガルタ仙台のサポーターの何が幸せかと言うと、とにかく毎年消化ゲームがないチームなのです。最後の最後までハラハラさせてくれます。
これはとても大事なことです。

ちょっと並べてみましょうか。
1999年  9位(J2)初めてのJリーグ
2000年  5位(J2)さすがにJ1昇格はないか
2001年  2位(J2)J1昇格
2002年 13位(J1)残留争い
2003年 15位(J1)J2降格
2004年  6位(J2)惜しくもJ1昇格できず
2005年  4位(J2)惜しくもJ1昇格できず
2006年  5位(J2)惜しくもJ1昇格できず
2007年  4位(J2)惜しくもJ1昇格できず
2008年  3位(J2)J1入れ替え戦敗退
2009年  優勝(J2)J1昇格
2010年 14位(J1)残留争い
2011年  4位(J1)優勝争い
2012年 準優勝(J1)最終戦まで優勝争い
2013年 13位(J1)残留争い
2014年 14位(J1)残留争い
2015年 J1残留争い中

前身ブランメル仙台から1999年にJリーグに加入してベガルタ仙台となりました。
その後、毎年最終戦までJ1では「残留争い」J2では「昇格争い」をしています。

2001年にJ1初昇格。あの最終戦の財前のゴールは泣けました。

2008年にはJ2で3位になりました。当時のルールでJ1下から3位のジュビロ磐田と入れ替え戦になりました。0泊2日の貸切バスで磐田に参戦しましたが、残念ながら敗退。帰りのバスの辛い気持ちは、忘れられません。

2012年には最終戦までJ1で優勝争いをしました。
「被災地の希望の光になる」という思いで選手もサポーターも頑張りました。
気持ちが入っているから一歩の歩幅が伸びます。球際に勝てるようになりました。
あの年は負ける気がしませんでした。
私の目の黒いうちに一度で良いから優勝を味わいたいと思っていましたが、「まさかここで来るのか」と思いましたが、さすがベガルタ仙台、そうはいきませんでした。

その後はJ2に落ちる恐怖を身近に感じながら、残留争いを繰り広げています。

確かに弱いチームかもしれません。
でも万年中位の緊迫感の無いチームより、毎試合楽しめます。
というか、試合参戦で疲れ切ります。

今年も残りあと4試合。
まだJ1残留が決まりません。
裏切りませんね。
今年も最後までハラハラ楽しませてくれるようです。

私はとても幸せです。











2014年12月31日水曜日

柳沢敦とオフ・ザ・ボール

柳沢敦が引退した。
日本で不世出のフォワードである柳沢の引退を我がベガルタ仙台で見ることができたのは、ある意味幸せと感じている。

サッカー好きの間で、日本の歴代トップのフォワードが誰であるかという問いがあれば、意見が分かれると思う。
キングカズ、釜本、高原、ゴン中山、ドラゴン久保......
この問いなら、柳沢の名前は挙がらないかも知れない。

しかし、「オフ・ザ・ボールの動き」でその後の日本のスタイルに影響を与えたフォワードとして、日本のサッカー史にその名を残す選手だと思う。
「点を取るだけがフォワードの仕事じゃない」という彼のスタイルは往々にして誤解されやすい。
逆にフォワードとして点も取って見せないと、このスタイルも受け容れられにくい。だから柳沢は観客から批判を受けることも多かった。

それでもサッカー界では高く評価され、日本代表としてキャリアも長く、日韓およびドイツの2回のワールドカップを経験している選手である。

鹿島アントラーズから、イタリアセリエAのサンプドリア、メッシーナ、京都サンガを経てベガルタ仙台に来たのは彼のピークが過ぎた2011年であった。
仙台在籍4年間で先発は少ない。その間リーグ戦で取った得点は7点。多くはない。

サッカーにおけるオフ・ザ・ボールの動きとは、プレーヤーがボールを持っていない局面で、ボールの予測をして如何に動くかということである。
試合全体と味方も相手も含む全選手の動きを理解して、ボールが来る前の動きで試合をコントロールするのである。
たとえば、味方のボランチが相手からボールを奪取した瞬間に、味方のシュートコースを作るためにいわゆるダイアゴナルランをして相手ディフェンダーを混乱させるとか、柳沢はとても上手かった。

このようにオフ・ザ・ボールで言う「プレーヤーがボールを持っていない局面」というのは試合中のことを言うであるが、柳沢の場合、試合以外の広義の「オフ・ザ・ボール(ピッチ)」の動きも素晴らしかった。

ベンチ入りをしても試合に出られない日も多かったが、練習から絶対に手を抜かない。僅かな時間の出場でも全力でプレーを見せる。仙台のチームに与えた影響はとても大きかったと思う。

また彼が移籍してきた2011年は、仙台にとって東北にとってとても大きな意味を持つ年だ。ホーム開幕を翌日に控えた3月11日に東日本大震災が来た。
あの被災の中、Jリーグがいつ再開できるか分からなくなり、多くの選手がそれぞれの地元に帰ったが、柳沢は残ってボランティアをしていた。
それも柳沢と名乗らずに、ボランティアセンターに並んで1個人としてボランティアをしていたようだ。とてもありがたく、頭が下がる姿勢である。

柳沢の最後のゴールは、11月2日のガンバ大阪戦での終了間際の同点弾である。
17年連続ゴールという本人が持つJリーグ歴代記録の更新をしたゴールでもある。
出場時間はわずかだったが、前線から積極的にボールを奪いに行き密集から抜け、角度の無いところからの素晴らしいゴールであった。これでガンバ大阪と引き分けに持ち込んだが、もしこのゴールが無かったら清水エスパルスに抜かれていて、最終的に今期のJ1残留は厳しかったと思う。

まだまだ若手が敵わない能力を持っているはずで、もっとベガルタ仙台のユニホームで活躍する柳沢を見たかったが、現役を引退する感覚は本人しか分からない。
ここはお疲れ様と言いたい。


さて「オフ・ザ・ボールの動き」サッカーだけでなく、とても重要と思う。

私の知っている「ある業界」は、ボールが来てから慌てている人が多いように見える。もしかすると、ボールが来ないとすでに試合中であることすら分かっていないのかもしれない。普段から何をイメージしているのか。

皆を、もう少し柳沢の試合に連れて行けば良かった。


よいお年をお迎えください。




2014年6月12日木曜日

地球の裏側で


明朝からはじまるあの世界的大イベント

どう考えても全部生は無理

でも今回は録画を観るまで、情報遮断は無理

結果が分かっていて、録画を観るくらい、つまらないものはない


では現地に行ったつもりで、時差を受け容れて生活をするか

いやいや、昼間頑張るべき理由があるからこそ、現地に行けないのだろう


大人として、社会人として、悩み多き1ヶ月が始まる









2014年5月15日木曜日

ベガルタ仙台 降格圏からの再出発

我がベガルタ仙台の開幕からの低迷については、とても残念に思っています。

原因としては、監督の問題もあるでしょう。
チームの過渡期という問題もあるでしょう。

ベガルタ仙台監督交代でリーダーを考える
負け癖を吹っ切れ

ワールドカップの日本代表選手の発表が、昨日今日の話題ですが、その中にベガルタ仙台からの選手はいません。
ベガルタ仙台はもともと金のないチームですから、日本代表級選手に育っても他チームに引き抜かれることもあり、また海外からフォルランのようなスーパースターを招聘できる訳も無いのです。
だからベガルタ仙台は、選手と戦術のやり繰りで戦うしかありません。
それでも一昨年は準優勝まで行きました。
しかし今年はJ2降格圏を抜け出せるかどうかという順位です。

この選手達に文句を言うのならレアル・マドリードでも応援すれば良いことです。
私は選手に下手だからという理由でブーイングはしません。
試合に負けたからと言ってブーイングはしません。
できることを精一杯やっているなら、どこまでも応援します。
しかし選手が、できるはずなのに手を抜いていたり、集中していないように見えたりすれば、そこはブーイングです。
これは、全国の後輩土地家屋調査士に対する私の姿勢も同じです。

私はファンではなく、サポーターだからです。
そして私は、生涯ベガルタ仙台サポーターからは移籍しません。

さて、このブログで長年利用してきた県別の閲覧概数を表示するツールを削除しました。
その代わりと言ってはなんですが、ベガルタ仙台の状況がわかるツールを貼ってみました。
宮城会会員の皆さんに、地元のチームに関心を持って戴きたいという私の勝手な想いで貼ってみました。ちょっと違和感があるでしょうが、既に何のブログだか分からなくなっていますので・・・。

現在J2降格圏をやっと脱出できるかというJ1リーグ14位ですが、ここから1年かけての盛り返しを皆で注目していてください。
その注目が選手の一歩の歩幅を決めます。

そして会員の皆さん、(話しが長くなることを覚悟して戴けるのならw)私にこの話題を振ってみてください。一緒にベガルタ仙台を語りましょう。

もちろん、ベガルタ仙台レディースも楽天イーグルスも仙台89'ersも仙台ベルフィーユの話題も大歓迎です。
そうそう仙台ベルフィーユ監督に、元全日本女子バレー監督の葛和伸元氏が就任したんですよね。女子バレーも面白くなりそうですね。





2014年4月29日火曜日

岡山劇場 声は届き、やがて力となる。

震災の直後の2011年3月29日に、サッカー・チャリティマッチ「日本代表 vs Jリーグ選抜」の試合が開催されました。まだ新幹線も復旧していなかった時期です。
日本代表の試合では本来単独チームのチャント(応援歌)は歌われないルールですが、この時だけは被災地東北を応援しようと、スタジアム全体でベガルタ仙台のチャント「ツイステッド」が試合中歌われました。それをテレビで観て聴いて私は涙が出ました。
私の周りも泣いたと聞きました。
大震災から18日目、悲嘆と失望と疲労と不安の中で、日本中のサポートを感じたからでしょう。
この時に、ベガルタのコールリーダーとスタジアム中をツイステッドを教えて廻ったのが、ベガルタ仙台の元選手・岡山一成でした。

その岡山の本が出ました。
「岡山劇場 声は届き、やがて力となる。」



4回の戦力外通告を乗り越え、18年間プロサッカー選手にしがみついた男の、歓喜と葛藤。
選手、チーム、サポーターを巻き込み、各地で熱狂を起こしてきた「岡山劇場」とは何だったのかを本人がはじめて振り返った一冊。

岡山一成
戦力外も含めて10チームを渡り歩いた選手です。
FWもDFもこなしていたはずなのに不器用な選手です。
でもその所属チームにとても大きな影響を与えた選手です。

岡山選手はベガルタ仙台にも2007年の途中から約1年半所属しました。
ヘディングが得意な選手ですが、ディフェンダーとして定位置を確保したとは言いがたい選手でした。
でも彼はサポーターを変え、スタジアムの雰囲気を変え、チームを変えました。
試合後トラメガを持ってサポーターに向けて、アホをやりながら想いを伝えました。
これが「岡山劇場」と呼ばれたものです。
彼は「岡山劇場」により、所属していたチームに多くの影響を与えてきた選手です。

彼が来る前は、ベガルタ仙台でも、試合内容によっては一部のサポーターが荒れて、あばれたり選手のバスを囲んだりしたことも有りました。
ブーイングは場合によっては有っても良いと思いますが、私はあれでは絶対に応援ではないと思っていました。
しかし彼は「岡山劇場」により最初の1年でサポーターの心を完全に掴んで、選手とサポーターとの最高の関係を作りました。彼がベガルタ仙台を去って6年目ですが、あれから選手とサポーターの関係は良好なままです。彼には感謝しています。

チームにはフォワードもディフェンダーも各ポジションが当然必要ですが、岡山は唯一無二のポジションでした。

岡山一成は、今奈良にいます。関西サッカーリーグ1部の「奈良クラブ」に入団し「選手兼奈良劇場総支配人」という肩書きでいます。
おそらく奈良も変え、最後には日本のJリーグ全体の雰囲気を変えることになるでしょう。

興味があったら読んでみてください。
本の帯には以下のコピーが書いてあります。

今、「必要とされない」と悩んでいるあなたへ。




2014年4月11日金曜日

ベガルタ仙台監督交代でリーダーを考える

東北の春は遅いですが、しかし確実に来ます。

仙台も桜が咲きました。
きれいなこのピンクの花びらを見ると、毎年嬉しくなります。
そして仙台はこれから美しい青葉の季節が来ます。
私の一番好きな季節です。

ベガルタ仙台にも遅い春が来ます。それは確実に来ます。

先日ベガルタ仙台の不調についてこのブログに書きました。
その書いた翌朝にアーノルド監督の解任が発表され、ヘッドコーチの渡辺普氏が監督に昇格することが決まりました。早い決断でした。
渡辺監督はベガルタ仙台では初めてのOB監督になります。

結果的にアーノルド監督は解任されましたが、先日書いたようにアーノルド監督が前手倉森監督に比べて、サッカー監督として特にダメだったとは思っていません。
現在の選手の平均年齢の問題や、これまでの戦術からの意識転換の問題や、外国人監督としての細かなコミュニケーションの問題も大きかったと思います。

ベガルタ仙台がJ1準優勝した一昨年の躍進は、「被災地東北の光になる」というモチベーションで気持ちをひとつにして戦ったという特に大きな要因がありました。
これは手倉森監督という稀代のモチベーターがいたから為し得たことだと思っています。

ただどんな組織でも長期間同じリーダーを掲げることは無理な事です。
特に手倉森監督の能力であるモチベーターの部分を長期維持することはとても難しいことです。
そのモチベーションで持って来たベガルタ仙台というチームにとって、アーノルド氏でなくとも新しい監督を迎えることはとても難しいことだったとも言えます。

とにかく成績が上がらなければ、その責任をとるのもリーダーの役目です。
アーノルド監督は、実際にピッチに立つ選手とバックアップ体制であるフロントとの責任も併せて解任されました。でもこれは仕方ないことです。

新しい渡辺監督は敢えて火中の栗を拾う事になることを分かって就任しました。心から応援したいと思いますし、今後の躍進を信じています。



さて、リーダーとチームの関係はとても難しいですね。

理想のないリーダーは論外です。

理想は有っても、それを理論に落とし込めないリーダーは、夢を見ているだけです。

理想に捕らわれすぎて、現実問題を解決できないリーダーも、組織としては役に立ちません。

理論が有っても、その理論をチームに理解させられず、結局誰も付いてこないリーダーは、もともと理論が無いのと同じです。

理論が無いから部下からの人気を気にして行動し、そこそこ人気はとるけれど、結局組織の成績を上げられないリーダーも、ある意味害になります。

自らの昔の小さな成功体験だけですべてを判断するリーダーは、確実に組織の害になります。

…おやおや、確かサッカーの監督の話しをしていたはずでしたよね。





2014年4月9日水曜日

負け癖を吹っ切れ

私がベガルタ仙台サポーターであることを知っている人から、ベガルタ仙台の試合の話しを時候の挨拶のように話しかけて戴くことが有りますが、最近その話題を振られることがとても少なくなりました。

そうです、皆さんに気を遣われているようです。(笑)

ベガルタ仙台は開幕6戦、2分4敗です。
毎年スタートダッシュでワクワクさせてくれるチームですが、今年はツライ春です。



今年は長い手倉森監督体制からグラハム・アーノルド監督体制に変わりました。
勝てないのは、優秀な手倉森監督から能力不足の監督に代わったという問題ではないと思っています。

手倉森氏が育てた選手を、手倉森氏が長年かかって使い切ったのです。昨年の後半は手倉森監督でも勝てていませんでしたし、今年監督を続けていたら、ここまででないにしろ、苦戦は免れないと思っていました。

しかし、それにしても連敗は辛いですね。
結果は出てないにしても、先日まで良かった選手間の連携も、先日の浦和戦では、攻撃も守備もバラバラでした。
もちろん選手が手を抜いている訳では無いと思います。
浦和戦に臨む戦術がそもそも違うようにも見えましたが、それ以前に負けや引き分けが続いて、選手も自信が失われているようでした。
こんなときには、監督やコーチによるメンタルコントロールが重要ですが、今は監督自身もそこが上手くいっていないようです。

「負け癖」
サッカーだけでなく、人生においても、これが一番避けなければならないものです。
最初は偶然でも、それを受け容れ始めると、負けが当たり前になり、勝てる気がしなくなります。そして余計な迷いが生じます。負のスパイラルに堕ちていきます。

私はベガルタ仙台をブランメル仙台の頃から見てきています。とてもとても弱いチームでした。私の目の黒いうちにJ1に昇格してくれたらどんなに嬉しいかと願っていたチームでした。

そんなチームには、過去何度も「負け癖」が出てきた時期がありました。
そんな時の特効薬は、どんな形でもよいから1回勝つことです。
フォーメーションやスタイルの問題ではなく、不格好でも良いから勝つことです。
それが負け癖を吹っ切ります。
無理に勝ちに行くという事ではありません。ガチガチに守って負けないようにして、できたらカウンターで勝つ程度で良いと思っています。
昨年までの積み重ねを思い出せば、そこそこ守ることができるはずです。

応援します。
付き合います。
だから迷わずに戦ってください。

当然試合は勝って欲しいです。
でも力及ばず負けてしまうときでも、選手たちが全力で戦っている限り、私達は最後まで応援します。
試合途中で帰ることは絶対にありません。
私達のチームですから。
自分たちの息子が全力で戦っているときに途中で帰る親はいないですから。





2013年11月4日月曜日

確かにスポーツは被災地に勇気を与えた

楽天イーグルス日本一から一日経ちました。
ちょうど昨日は雨の中、1球1球を見逃さないように集中していました。
前日160球投げたばかりの田中が、最終回にマウンドに向かうときのスタジアム中の地鳴りのような声援で涙が出ました。そして田中の最後の投球で日本一が決まった瞬間には、東北全体が吼えました。



被災地にスポーツが勇気を与えると言いますが、「本当か?」と思う気持ちも皆さんにあるでしょう。「スポーツはその場の楽しみであって、復興へ向かう勇気まで言及するのは大袈裟だ」と思っていませんでしょうか。被災直後の私自身も良くわからなかったのです。
でも本当です。あの弱かった楽天イーグルスだから、被災地の人々はなおさら勇気をもらいました。そう私は実感しています。

以下は東日本大震災とスポーツについて触れた私のブログです。
そのときそのときの私の正直な気持ちで書いています。

スポーツは被災地に勇気を与えるか 2011年3月31日木曜日

ベガルタ仙台レディース 2011年10月14日金曜日

東北の躍進 2012年6月14日木曜日

続けていくことが大事な時期 2013年9月30日月曜日

また逆に、選手は被災地から力を得たと言ってます。
実際に被災直後は、選手にも「スポーツをやっていて良いのか」という葛藤があったようです。
楽天イーグルスの選手だけでなく、ベガルタ仙台や仙台89’ers(BJリーグ)の選手も同じ思いでした。彼らは、練習の合間を見てボランティア活動を続けました。
残念ながら一時解散を余儀なくされた仙台89’ersの選手達も、自らの明日も分からないときに、被災地でボランティアを頑張りました。
あの元日本代表ベガルタ仙台の柳沢敦も、名乗らずにボランティアセンターに通ったようです。

そして彼らはスポーツを一生懸命続けることが、被災地の為になるという結論に至ったようです。その「誰かの為に」という気持ちになった者は、とても強くなれます。
あのイーグルスが、あのベガルタが、とても強くなりました。

東北にスポーツが有って良かったです。
楽天イーグルスやベガルタ仙台の躍進は、被災地では本当に力になりました。
昨日の楽天イーグルスの日本一を得て、東北は更に復興が加速すると思います。



楽天イーグルス日本一!

東北楽天ゴールデンイーグルスが日本一になりました。





先日パリーグ優勝したときにもブログを書きましたが、9年前、本当に弱いチームでした。
仙台育英や東北高校の方が強いかもと言われていたチームでした。

東日本大震災直後は、東北は何もかも止まってしまいました。
東北のプロスポーツなんかどうなるのか、という状態でした。
それでも東北のプロスポーツチームは各々頑張りました。
被災地支援をしながら練習を続けました。

見せましょう野球の底力を!
これは、楽天イーグルスの嶋基宏が、2011年4月2日に東日本大震災の復興支援のために行われた慈善試合の前にスピーチした際の言葉です。

そして今日、巨人と日本シリーズ第7戦までもつれて、なおかつ勝ってしまうチームになりました。
我がチームは本当に強かった。

今日はもう書くことはありません。
ただただ感激しています。

ひとつだけ、私の愛媛の友人、平塚さんのコメントを紹介します。

今日は11月3日、あの日と逆に今日が東北の皆様の新たなる希望の始まりの日となって頂けることを信じています。







2013年10月9日水曜日

プロスポーツとプレイオフについて考えた


この一球は絶対無二の一球なり

やり直しのきかないその瞬間瞬間に、己の技術、体力、精神力の限りを尽くすから、スポーツは美しいと思っています。

さて、楽天イーグルスは9月26日にパリーグ優勝し、昨日10月8日は田中将大の年間負け無し24連勝というとんでもない快挙に浸っています。
これからクライマックスシリーズに臨みます。
このクライマックスシリーズについては、興行としての収益増と、ファンにとってはより多くの試合を楽しめるというメリットがあるのでしょうが、私はもともと反対でした。
本来リーグの1試合の重みを減らすものだからです。やり直しがきくのです。
クイズバラエティの 最後の問題で、突然配点を100点にするようなものです。
広島に恨みは無いけれど勝率5割行かないチームが、日本一になる可能性もあるシステムですから、納得できません。

優勝したから言うのではありませんよ。楽天イーグルスはどちらにしても日本一になるのですから。
プロ野球は、セパ交流戦は有るにしても、ほぼ一年間戦う相手が5チームしか無いというのに、年間144試合もあるのだから、もともと試合数が多すぎます。だから選手もファンも1試合負けてもどうってことないのです。日本プロ野球についてはいずれ書きたいと思っています。

またJリーグに目を向けると、年間1シーズンで戦っていたところを、2015年から前期後期の2シーズン制に戻すことに決定していまいました。
こちらもシーズン後にプレーオフをすることになるようです。前期の優勝チームと後期の準優勝チームが戦い、後期の優勝チームと前期の準優勝チームが戦い、その勝者同士が戦い勝った方が、前後期を通じて一番の勝率を得たチームと日本一を争うようです。
1回読んでわかりました?スッキリしませんでしょ。
私は毎日でもサッカーを見たい人間です。たとえば我がベガルタ仙台がシーズンを終えてもまだ試合があることは、正直嬉しいと思います。まして惜しくも優勝を逃した我がチームが復活できる可能性があれば、サポーターとしては力が入るかもしれません。
でもやはりスッキリしません。
前期優勝したチームは、後期は怪我しないように無理しないように試合をすれば良くなります。極端に言えば最下位でもプレイオフに備えれば良いので、試合の緊迫感は無くなります。

確かにJリーグは収益が伸び悩んでいます。だからサッカー協会はこんなことを考えて拙速に決めてしまいました。これは短期的な収益しか考えていないように見えます。
こんなことをしたらリーグ戦の1試合1試合の重みが薄れてしまいます。
一瞬のボールの不規則な弾み方で、とても不運な1回の誤審で、年間の優勝が逃げていくことがあるからこそ、サポーターは瞬きも惜しいほどに一瞬も見逃さないように試合を見ます。
この刹那的な緊迫感がスポーツの醍醐味です。
サッカー協会が目の前の小さな収入に目を奪われ、本来持っているスポーツの魅力を減少させ、かえってプロスポーツの将来を見失うように思えます。

こんなことを考えていたら、目先だけ見て将来ビジョンを見失いそうなあの業界の組織を思い出しました。

2013年9月30日月曜日

続けていくことが大事な時期

見せましょう野球の底力を!

これは、楽天イーグルスの選手、嶋基宏が、2011年4月2日に東日本大震災の復興支援のために行われた慈善試合の前にスピーチした際の言葉です。

自らも被災して、再開も危ぶまれたそれぞれのリーグ戦で、被災地のプロスポーツチームが勝ち続けることは、被災地にとても勇気を与えます。
あれだけ弱かった楽天イーグルスが今年優勝しました

また、ベガルタ仙台が昨年J1準優勝しました
これらの活躍は、被災地全体に勇気と元気を与えました。

今年のベガルタ仙台は、ACLの後遺症も残り、昨年ほどの結果を出していませんが、怪我人も戻りつつあり、ここのところ調子が戻ってきました。
9月中の試合では相手チームに1点も与えない鉄壁の守備が戻ってきました。
攻撃の得点は運による要素も大きいですが、守備は理屈の要素が大きいです。おそらくこれから大崩れすることは無いでしょうから、12月に向けて順位を上げてくるでしょう。

先週末28日はJ1首位の横浜Fマリノスとの試合がありました。
マリノスには近年負けていませんが、今年のマリノスは調子良いようです。
お互いに守備のブロックを作って堅く守り、隙を見て攻撃に移る形です。
90分間緊迫する試合で0対0の引き分けでした。
各々勝ち点1を分け合った試合で、とても見応えのある試合でした。
首位と引き分けたから良いとするか、首位に勝ち点を縮められなかったかと見るか、考えが分かれるところでしょう。

さて、そのマリノスの選手達が、その翌日に東松島市を訪問してサッカー教室を開いてくれました。

これらの被災地支援活動は、横浜Fマリノスだけではありません。仙台と対戦するたくさんのチームが、疲れているのに試合の翌日に被災地をまわってくれています。

憧れのプロサッカー選手が自分の地元に来てくれて、サッカーを教えてくれるのです。
あの中村俊輔が一緒にボールを蹴ってくれます。
仮設の子ども達も元気になります。

(私個人的には敵だけど・・・)
(いいんです。サッカーに関しては心が狭いんです)


東日本大震災後、サッカーに限らずスポーツによる被災地支援は、途切れること無く続いています。
ありがたいことです。
間違いなく、スポーツには大きな底力があります。

俊輔は「続けていくことが大事な時期」と話してくれたようです。

そうなんです。
被災地の人間はいつまでも甘ったれている訳ではありませんが、取り残されている人達もとても多いのです。
最近は報道も減りました。日本中の人達は被災地はもう問題ないと思っているでしょうね。ボランティアの皆さんも、やりきった感があるのかも知れません。

私自身はまったく問題ありません。
でも今がデリケートな時期である方々が確かにいます。


俊輔ありがとう。敵だけど・・・。




2013/9/30神奈川新聞

サッカーJ1の横浜F・マリノスの選手らが29日、東日本大震災で被災した宮城県東松島市を訪れ、子どもたちを対象にサッカー教室を開いた。

 東松島市との交流は震災直後の2011年5月29日から始まり、ことしで3年連続3度目。サッカー教室などで親睦を深めている。横浜F・マリノスはこのほかにも岩手県山田町の子どもたちを公式戦に招くなど、被災地支援を続けている。

 この日は幼稚園児と小学生192人が参加。児童の約半数が現在も仮設住宅で生活しているという。津波で大きな被害を受けた沿岸部の野蒜地区を拠点とする「NARUNO FC」の大槻陽平主将(11)は「いつもテレビで見ている選手とプレーでき、夢のようでした」と目を輝かせ、母の由季さん(41)も「私たちを忘れないで、来てくれることが本当にうれしい」と笑みを浮かべた。

 中村俊輔選手は「続けていくことが大事な時期」と話し、個人的にも被災地の支援活動に取り組んでいる中沢佑二選手は「来年は『優勝できました』と報告ができたらいいね」とうなずいた。