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2020年2月3日月曜日

キャッツ 映画版

私はミュージカルが好きです。
たいていのミュージカル舞台は観ていますし、映画になったものも観ています。
もちろん「キャッツ」も観ています。
私が事務所で残業するときの定番は「オペラ座の怪人(25周年記念公演 in ロンドン)」や「キャッツ(2013)」などの映像をBGVとしてかけっぱなしにすることです。

その「キャッツ」をトム・フーパーが映画にして、しかも評判が悪いとのこと。
まあ観てみましょうと行ってきました。

結論、私には十分楽しめました。





帰ってからどんな理由で評判が悪いかちょっと見てみました。

「ストーリーが分かりにくい」
「ストーリーがない」
「猫メイクのCGが気持ち悪い」
「映画にする意味が分からない」etc.

なんだそんなことですか。

ストーリー云々についてですが、もともとこのミュージカルの原作は、様々な猫の性格や人生(猫生?)を人間になぞらえたエリオットの詩であり、起承転結の分かりやすい物語ではないのです。だから次々と現れる猫の猫生を表現する歌と踊りを楽しむのが「キャッツ」の見どころです。ミュージカルが嫌いなら、この映画はこの点でつらいかも知れません。

猫のCGメイクについては確かに馴染みのあるものではないでしょう。
顔に猫メイクをせずにそのままにして、その他をCGで毛を生やしている姿は、誰も見たことのないものでしょう。
でも舞台の猫の衣装とメイクだって違和感があったはずです。それに慣れただけの話しだと思います。
映画の場合は舞台と違い顔をアップで見せることになるので、このような顔出し設定にしたのでしょう。
私は見始めてすぐに慣れました。少なくても「アバター」を観たときよりも早く違和感がなくなりました。
さらに、猫の行動学の専門家の監修を得て、動きが人間らしくなるとすぐに注意されたとのことで、皆の動きがより猫に見えました。尻尾の動きも自然で良かったですね。

映画化については当然賛否が有るでしょう。
舞台が完成形なのに何故映画が必要かという問いですね。
私はこれにも肯定派です。
他のミュージカルも舞台と映画がどちらも存在するものは多いです。
私は映画の方が好きだということではありません。
自分の好きなものを同様に好きな人がいて、その人なりにもっと良いものにしたいと思ったわけですから、それは良いことでしょう。
選択肢が増えることは否定しなくても良いでしょう。

いつも思うのですが、違和感のあるものを排斥しなくても、選択肢が多い方が楽しいでしょう。
その上で「今回の映画化が失敗だ」と思えば「私は舞台が好き」と言えば良いだけです。
それなら次の映画化を楽しみにしても良いでしょう。
舞台版だって配役も演出も少しずつ変わっているのですし。

今回の映画化に際して、原作に戻ってエリオットの詩から作り直すことも考えられたでしょうが、敢えて既に完成形である舞台を尊重して、それに手を加える選択をしたようです。限られた舞台の演出に映画の自由度を加えるというアプローチでした。
それが成功かというとやはり意見が分かれるでしょう。

少なくても私は楽しめました。
舞台版で熟知している猫の見せ場を「映画ではこう来たか」などと思い、ニヤニヤ(ニャーニャー?)して観ました。
なにしろ、各登場猫にバレエ、ダンス、歌唱、演技の第一人者をキャスティングしているのですから、十分楽しめました。
フランチェスカ・ヘイワードの優雅なバレエが猫に見えて可愛いし、まさかの雌猫設定の長老猫がジョディ・デンチでとても納得だったし、ジェニファー・ハドソンの「メモリー」の歌唱は感動ものだったし、書き始めたらほかにも見どころはいくらでも書けそうです。

本当に楽しかったですよ。
どちらが好きかと言われたら私も舞台版の方だと思いますが、この映画も動画として配信されたら買うと思います。
残業時には、舞台版をメインにして、たまに映画版を流す感じですね。
実は残業時の「オペラ座の怪人」も、たまには映画版(2004年)も流していますし。

猫好きなら、怖いもの見たさでいかがですか。






2019年2月24日日曜日

メリー・ポピンズ・リターンズ

年末からずっと忙しく映画館で映画を観ることが極端に減っていました。
しかしこの映画だけは観なければと思い、行ってきました。


「メリー・ポピンズ・リターンズ」です。

誰でも知っているあの「メリー・ポピンズ」の55年ぶりの続編です。
大好きなジュリー・アンドリュースの「メリー・ポピンズ」の続編が出るらしいと聞いて「悪い予感しかしない(笑)」と思ったのですが、その反面「私が観ないでどうする」という想いもありました。

メリー・ポピンズは、55年前のミュージカルの傑作です。
歌とダンスがメイン、しかもあの時代のもの、そしてディズニーの2Dアニメと合成映像など…。
メリー・ポピンズが傑作なのは間違いないのですが、この映画がどの時代でも通用する普遍的なものなのか、あの時代のミュージカルが本当に今の時代に受け容れられるのか、少し心配でした。
まあ当時であっても、物語として考えたら人物描写がステレオタイプで、ストーリーが単純すぎます。
そこを、ミュージカルですから、ディズニーですから、ジュリー・アンドリュースですから(私だけ?)と理解してもらえるかどうか。
私はミュージカルは大好きなのですが、ミュージカル嫌いの人は確実にいますし。
こんな感じで、前作でも少し心配ですから、今作はどう考えても心配でした。

今の時代の映画だけ観ている人にとっては、今作は子供だましの映画に見えて、つまらなかったかも知れません。
かと言って、昔のメリー・ポピンズが大好きな人は、当時の名作と比べて今作の酷評を発するかも知れません。

私はと言うと、やはりメリー・ポピンズと言われればジュリー・アンドリュースのイメージがあまりにも強くて心配だったのですが、それでも、今作は今作でとても楽しむことができました。
一つ一つのシーン毎に昔のシーンを思い出し、とても楽しく観ることができました。

「今の時代にメリー・ポピンズという制約の中で、誰が創ってもこれ以上のメリーポピンズができるだろうか」という気持ちにもなりました。
監督のポブ・マーシャルや主演のエミリー・ブラントはじめ関係者全員が、大きなプレッシャーを受けていたはずで、良くやったと思います。

構成としては、前作をとても意識していて、すべての歌とダンスと人物と小道具が、昔の映画に存在するそれらと対応するという作りです。前作を観ないとわからない小ネタがちりばめられています。
前作の歌を使えばもっと受けるはずなのに、今作は一切新曲にしておきながら、回想シーンで過去の歌の短いフレーズを小さく流すなど、とても工夫をしていたと思います。

さて、実はブログでこの映画の感想を書くつもりは無かったのですが、映画を観た人達の感想の中で、ちょっと気になったことがあるので、久しぶりに私の感想(弁護)を書きます。

ネタバレになるから詳しくは書かないけれど、ある問題解決シーンで「最初からメリーがやれば良かったのに」という感想がちらほら聞かれる場面があります。
そこだけは私の意見を言わせてください。

この映画の主題は、「自分たちで解決しようよ」ということです。
メリーは「見方を変えればできないことは無い」ということを教えます。
前作でも「スプーン一杯の砂糖で苦い薬もへいちゃらさ」と歌っています。
今作でも「本は表紙じゃわからない」と続けています。
見方を変えて、自分たちで気が付き、自分たちで努力して、自分たちで未来を開くことは新旧2作を通じてメリーが伝えていることです。

それをメリーの魔法がちょっとだけ手伝って、その自己解決の切っ掛けを作るのです。

だから、あの問題解決シーンも、まずは自分たちで頑張ることが前提で、最後の最後にメリーが手伝うのです。しかも、それさえも根本解決ではなく、あの場面の解決は別の場面で頑張っている家族へのサポートなのです。
あの問題を、「最初からメリーがやれば良い」と言うのなら、あんなプロセスを踏ませずに、冒頭で、メリーが魔法で大金を出してしまえば解決します。
しかし彼女はそれをせず、家族が自分たちで努力して、そのプロセスで心の在り方も変わっていくわけです。
そして自分たちで解決できるところまで来たら、メリーは空に帰って行きます。
この映画のエンディングが他の映画と違うところは、自分たちで解決した時点でメリーの帰還を誰も気にしていないことです。
問題を解決したシェーンのように「カムバック」と泣かれながら別れるのではありません。この淡泊さは、もう家族が自立したことを示しています。


さて、このメリー・ポピンズの続編が私にとって一番良かったことは、私の好きな映画をもう一度観せてくれたことです。これはやはりありがたいと思います。

スター・ウォーズでも、007でも、主役が変わるときにはとても残念な気持ちになります。
だけど「だったら、もう観られなくても良いのか」と考えたら、やはり「また続編を創ってくれてありがとう」という気持ちの方が強くなります。

まあ、この映画もいろいろ言いたいこともあるけれど、ネタばらししない範囲で語ることは難しいし、主演のエミリー・ブラントがとても美しかったので、もうそれだけでOKですね。

これから観る予定で前作を観ていない人は、是非前作を観てから行くことをお勧めします。今作だけでも悪くないですが、前作を観た方がはるかに楽しめるはずです。












2018年2月17日土曜日

グレイテスト・ショーマン

昨日は仙台支部の総会がありました。
懇親会を終え「オサムちゃん、歌いに行くぞ」という先輩の二次会のお誘いを丁寧にお断りし、「歌を聞くならこちらでしょう」と行ったのが映画館。
ミュージカル「グレイテスト・ショーマン」です。ちょうど昨日から上映だったのです。


19世紀半ばのアメリカ。幼なじみの妻チャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)を幸せにすることを願い、挑戦と失敗を繰り返してきたP.T.バーナム(ヒュー・ジャックマン)は、オンリーワンの個性を持つ人々を集めたショーをヒットさせ、成功をつかむ。
しかしバーナムの型破りなショーには根強い反対派もいた。
裕福になっても社会に認めてもらえない状況に頭を悩ませるバーナムだったが、若き相棒フィリップ(ザック・エフロン)の協力により、イギリスのヴィクトリア女王に謁見するチャンスを手にする。レティ(キアラ・セトル)たちパフォーマーを連れて女王に謁見したバーナムは、そこで美貌のオペラ歌手ジェニー・リンド(レベッカ・ファーンガソン)と出会う。
彼女のアメリカ公演を成功させれば、一流のプロモーターとして世間から一目置かれる存在になれる。そう考えたバーナムは、ジェニーのアメリカ・ツアーに全精力を注ぎ込むと決め、フィリップに団長の座を譲る。
そのフィリップは、一座の花形アン(ゼンセイヤ)との障害の多い恋に悩みながらも、ショーを成功させようと懸命に取り組んだ。しかし、彼らの行く手には、これまで築き上げたものすべてを失いかねない危険が待ち受けていた。(オフィシャルより)


実話ベースの映画です。
P.T.バーナム(1810年ー1891年)は、様々な仕事を経て興行師として成功した人で、ショーとしてサーカスを確立した人です。
この映画は100年以上前の古い時代を描いていますが、音楽とダンスは今の時代の新しいもので、かなりキレが良く気分が上がります。


主人公バーナムは、階級的差別の中、極貧から成り上がりたいという野心いっぱいで生きて来ました。
最初は、「階級を超えて結婚した妻を幸せにしたい」「それだけで生きよう」と努力を始め、上を上を目指して生きていくうちに、次第に自分の立ち位置がわからなくなる…
いつの間にか、手段が目的に変わってしまっていたのでした。

バーナムは、自分の人生が成り上がりを実現し始めていることを実感しながらも「やはり偽物なのだろうか、社会の誰もが認める本物になりたい」という葛藤の中で新しい興行に手を付けます。この先はネタバレにもなるので観ていただくとして・・・。

彼のサーカスは、観客には圧倒的な支持を受けながらも、世間からは常に偽物と言われ続けて蔑む者も多かったのです。
実際に社会的に陰でひっそりと暮らしていた身体的マイノリティや、人種的マイノリティなどを、陽の当たる表舞台に立たせショーをするのだから、良くも悪くも当時の社会に驚きで迎えられたのでしょう。

このマイノリティたちを舞台に上げることを、この映画では「誰もがオンリーワンになれる場所をサーカスというエンターテイメントの世界に作り出し、人々の人生を勇気と希望で照らした」という視点で描いています。
マイノリティで社会に受け容れられなくても、レティたちパフォーマーは「This is me」と歌い上げています。これ名曲です。
いわゆる「アナと雪の女王」における「ありのままに」ですね。
いかにも現代のハリウッドが創りそうなテーマです。

では、バーナムには最初からマイノリティたちに対する偏見はなかったのでしょうか。
サーカスを始めたバーナムにはマイノリティに対する偏見があるからこそ、それを見世物にするという発想があったはずで、映画の中の名セリフの「人と違うから輝くんだ」は後付けとしか思えないのです。
バーナムは、もともとサーカスを始める前に、観客は怖いもの奇妙なものを見たいはずだと言って、怪しい見世物小屋を作ったわけですから。
もちろん実話ベースである限り、作り手側も十分それを意識して、映画の中でもバーナムのそんな側面も盛り込んでいます。

だから、私がこの映画を観ている間、この主人公に感情移入ができませんでした。私の手放しで絶賛ではない部分です。

しかし、この映画はミュージカルです。しかも110分程度のテンポの良いものです。
その中で圧倒的な歌とダンスが披露されれば、面倒なストーリーの裏にある暗闇など考えている余裕などあるわけがありません。
このミュージカル、歌とダンスは最高ですから。
クライマックスの集団ダンスシーンなどですべては歓喜の中で吹っ飛びます。
そう、映画の観客は私も含め、主人公の言う「最も崇高な芸術は人を幸せにすること」の魔法にかかるのです。

そして最後に、ショービジネスとは違うバーナムの娘の舞台が待っています。
この舞台に向かうバーナムの乗り物と2人の娘のバレエを観るとまた魔法にかかります。

結局、この映画は勧めるかと言われれば、もちろん勧めますよ。
ミュージカルはどうも違和感があると言う人ならやめたほうがいいかもしれません。ストーリーだけなら薄っぺらいですから。
しかし、ミュージカル好きなら絶対に楽しめるでしょう。
空中ブランコでの愛を告げるシーンなどの印象的な名シーンも多いですし。
環境が許せば、IMAXなどのできるだけ良い映像と良い音響の映画館で鑑賞して欲しいと思います。


私はもう一度観に行くでしょうし、動画が発売されたら買うでしょうね。


2018年1月10日水曜日

ザ・コンサルタント


小さな町で会計士として働くクリスチャン(ベン・アフレック)のもとに、ある日大手企業からの財務調査のオファーが寄せられる。調査を進めるうちに彼は重大な不正を発見するが依頼は突然取り下げられ、それ以来クリスチャンは身の危険を感じるようになる。実は、彼は闇の社会の会計士として各国の危険人物の裏帳簿を握るすご腕の暗殺者だった。
(yahoo映画から)


「会計士が実は腕利きの殺し屋」という設定です。

「実は・・」というジャンルは、大好物のジャンルです。
ホームセンターに勤める普通のおじさんが実は・・・、さえない新聞記者だが実は・・・、戦艦のコック長だが実は・・・、昼行灯の南町奉行所同心だが実は・・・、越後の縮緬問屋の隠居だが実は・・・等々。

だから大好物のジャンルムービーで、すかっとしたアクション映画だと思って観ました。
しかしこの映画は、事前に予想していた映画とは違っていました。
もちろん、当然そのジャンル映画としても楽しめるのですが、観終わってみるとまた別の印象が残りました。

主人公クリスチャンは高機能自閉症を持っています。
その高機能自閉症を抱えるクリスチャンを世間の荒波から守る為に、父親は特殊な戦闘能力を身に付けさせたのです。
その二つの大きな要因から主人公のキャラクターが作られています。
昼は腕の良いコンサルタントでありながら、コミュニケーションについては少し欠落する部分があるようです。
そして、夜は真っ暗な部屋で、明滅するストロボの中で大音量のロックをかけながら、棍棒で向こうずねを鍛えるトレーニングを行います。
それがとても異様で、儀式にすら思える異様なトレーニングですが、光や大音響が苦手な高機能自閉症を克服する彼なりのルーチンのようです。
とにかく序盤から彼のキャラクターに引き込まれます。

彼には裏の世界のお客がいるようです。
裏の会計を把握していながら、何故主人公は殺されないのか。
彼の関わる人間がそれぞれの思惑で動き始めます。

様々な伏線が物語りの始めから提示されていて、それらの伏線は最後には全部回収されます。このシナリオがとても良く練られていると思います。
おそらく観終わってから、それらの伏線を辿りたくなって、もう一度最初から観たくなると思います。

別の印象が残ったと書いたのは、この映画は切れの良いアクションだけでなく、むしろ人間ドラマでもあるからです。ハンディを負った主人公と家族との関わりや、彼の謎のアシスタントなどの部分が、「そうだったのか」という展開なのですが、ネタバレになるので詳しくは書けません。
アナ・ケンドリック演じるヒロインとの関係も、このクリスチャンのキャラクターだからこその味わいのあるものでした。
このブログでは「この映画はとても面白いので観てください」ということだけをお伝えします。
ベン・アフレックは、はまり役だと思います。私は続編が出るなら観ると思います。


え、私ですか?
土地家屋調査士のオジサンだけど、実は・・



2018年1月5日金曜日

ズートピア

昨年は夜中に映画を観る時間を創るのがやっとで、ブログを書くまでの余裕がありませんでした。それらの映画は、今更ブログに感想を書いても完全に時機を失っているのですが、自分自身の記録と観ていない人のレンタル観賞のお役に立つかも知れないと考えて、まだ感想を書いていない映画を少しずつ書いてみます。

ということで、「ズートピア」から。



肉食動物と草食動物が共存する世界、ズートピア。
望めばなんにでも成れる理想都市。
そこで活躍するのが、ウサギ初の警察官になるという夢を叶えたウサギの女の子ジュディがヒロイン。
この理想の大都会に、ある陰謀が進行していた。
ジュディはある行方不明事件の捜査を開始した。
捜査が進むにつれ、その事件の背後に潜む大きな陰謀が明らかになっていく。
その陰謀によりズートピアの平和そのものが脅かされそうになっているのだった。
頼ることができるのは詐欺師のキツネ、ニックだけ。
さてジュディは・・・


2016年のディズニーの3Dアニメ映画です。
遅ればせながら、昨年末に観ました。
この映画は、とても楽しめました。

夢、勇気、友情、信頼などのお約束のテーマに加えて、最近のディズニーらしい社会性メッセージも含んでいるのでしょう。
大きな動物、小さな動物、肉食動物と草食動物が共存することは、間違いなく人種の共存であり、偏見と差別を排除し、お互いの相違を理解して、信頼して生きることなのでしょう。
もしかすると、2016年11月の大統領選挙に向かって、ディズニー側としては何らかのメッセージが有ったのかも知れません。

まあ作る方はいろいろ意味を込めているのかも知れないし、観客が勝手に深読みしているのかも知れませんが、結局映画は面白いか否かだけです。
私には間違いなく面白かったです。

アニメとはいえ、子供だましではありません。
理想の街ズートピアの裏で次第に大きくなる陰謀を描くクライム・サスペンスとしての脚本も良く練られ、その陰謀に立ち向かう主人公とその相棒とを描くバディ・ムービーとしても良くできています。また良質のコメディとしても良くできていると思います。

主演女優(うさぎのジョディ)もとても可愛く魅力的ですし、その相手役(きつねのニック)のニヒルなキャラクターも良いですね。
脚本が良くて主演女優が魅力的なら、当然映画は大成功です。

「ウサギでしかも女なのに警察官なんて」という偏見で一人前に扱ってもらえないジュディと、「キツネは嘘つき」という先入観で評価されるニックですが、良いテンポで物語りが動き、次第にバディになっていきます。

中には役所仕事を皮肉っているネタも有るし、他の映画のパロディもちりばめられているし、笑いどころも多いです。にんじんボールペンのガジェットなども楽しく、最後には伏線が回収されたすっきり感もあり、とても楽しいです。

子供向けの映画ではありません。子供も大人も誰でも楽しめる映画です。
まだ観ていない人は、レンタルしても損はないと思います。

私も今後何回か観る映画になりました。









2017年10月30日月曜日

ブレードランナー2049

「ブレードランナー2049」


1982年制作の映画「ブレードランナー」の続編です。
35年前の映画のリメイクでなければ、オマージュでもなく、本当に続編です。

好きな映画の続編を観ることは怖いのです。
同窓会で好きだった子に会うような。
観たいような観たくないような。
でも結局観ないわけにはいかないのです。

ブレードランナー(前作)は1982年(35年前)の映画です。
有名なSF映画で、ここで紹介するまでもないのかも知れませんが、さすがに35年前の映画ですから、一応書いておきます。
この映画は、たとえばスター・ウォーズやETなどのアッケラカンとしたSFと違って、世界観が暗く、映画自体もわかりづらくできていたので、好き嫌いに分かれるようです。

舞台は2019年のロサンゼルス。(なんと2年後?)
環境破壊により人類の大半は宇宙に移住し、地球に残った人々は酸性雨が降りしきる無国籍文化の雑然とした都市で生活している。過酷な宇宙開発の労働は、遺伝子工学の成果であるレプリカントと呼ばれる人造人間を従事させていた。レプリカントは人間と見分けが難しく、数年経つと感情が芽生え、人間に反抗する事例があったので、安全装置として寿命を4年と設定されている。
しかし、それでもレプリカントが脱走し地球に逃れる事件が多発するので、そのレプリカントを始末(解任)する警察の担当者がブレードランナーである。
事件が起きた。ブレードランナーを退職していたデッカードが呼び出された。
デッカードは情報を得るためレプリカントの開発者であるタイレル博士と面会し、彼の秘書のレイチェルもレプリカントであることを見抜く。
レイチェル自身はレプリカントである認識がなく、アイデンティティが揺さぶられる。そんなレイチェルにデッカードは惹かれていく。

これが前作、この前作の描く世界観は全世界に衝撃を与えました。未来は単純に明るいわけではなく混沌としていて、それまでの他の映画で描く未来とはまったく違う未来の映像が続きます。それでいて妙にリアリティがあるもので、その後のSF映画などに多くの影響を与えたものです。

この映画では、丁寧な説明は省かれていて、なおかつ謎のまま終わらせた要素も多く、テーマの深さに加え、映画を観た後にすっきりしない気持ちがたくさん残る映画でした。
だからこそ、これらの謎について、カルト的ファンの間で35年間の議論が続いています。

これらの前作の世界観を踏まえて、前作の30年後の世界を描き、カルト的熱狂ファンも満足させる続編を創るのは最初からとても難しいものだと思われました。

では、今回の続編は何を描いたのでしょうか、

2049年、ブレードランナー「K」は、ある事件の捜査中に、人類とレプリカントの間に存在する不安定な秩序を揺るがす大きな謎にあたる。どうも、レプリカント開発のウォレス社に巨大な陰謀があるらしい。謎を解明しようと行動する中で「K」自身のアイデンティティがわからなくなる。その過程で、この謎の鍵となる男にたどり着く。
30年間行方不明になっていたブレードランナー、デッカードだった。
彼は何を知って、何を守り続けてきたのか。

前作の世界観を壊さずに、前作の謎に答えながら、情感溢れる素晴らしい映画に仕上げています。

AI登載のホームオートメーションシステムの「ジョイ」が「K」の恋人です。「ジョイ」はキュートな女性の姿をしたホログラフィーで現れるが、自らの意思も感情も持っています。
そのAIである「ジョイ」や、前作のレイチェルや今作の「K」を含めたレプリカント達のアイデンティティを表現することで、この2作の映画は「人間とはなんなのか」「何を持って人間とするのか」を提示しています。

確かにテーマもストーリーも難しいかも知れないけれど、今作は前作のカルト的な趣は残しながらも、アクションもあり、涙もあり、前作の謎を回収していて、むしろわかりやすくなりました。

ネタバレしないで、この映画の本当の面白さを伝えるのは難しいのです。
だから、観て欲しいです。
前作を観ていないなら、できれば前作を観てからにしてください。
それが無理なら、今作を観た後でも前作を観てください。
ストーリーや世界観がわかるだけでなく、今作の底に流れる情感が理解しやすくなるでしょう。

私は初日から二日続けて観てしまいました。

それにしても「ジョイ」、かわいいね。
彼女に会えるなら、あと30年待っていようか。



2017年9月12日火曜日

ベイビー・ドライバー

久しぶりで映画館に行きました。
観た映画は「ベイビー・ドライバー」

7月8月と公私とも何かと有ったので、映画館は久しぶりでした。
久しぶりの映画は、楽しい方が良いと思い、この映画をチョイスしました。



ベイビー(アンセル・エルゴート)。その天才的なドライビング・センスが買われ、組織の運転手として彼に課せられた仕事―それは、銀行、現金輸送車を襲ったメンバーを確実に「逃がす」こと。子供の頃の交通事故が原因で耳鳴りに悩まされ続けているベイビー。しかし、音楽を聴くことで、耳鳴りがかき消され、そのドライビング・テクニックがさらに覚醒する。そして誰も止めることができない、追いつくことすらできない、イカれたドライバーへと変貌する―。
組織のボスで作戦担当のドク(ケヴィン・スペイシー)、すぐにブチ切れ銃をブッ放すバッツ(ジェイミー・フォックス)、凶暴すぎる夫婦、バディ(ジョン・ハム)とダーリン(エイザ・ゴンザレス)。彼らとの仕事にスリルを覚え、才能を活かしてきたベイビー。しかし、このクレイジーな環境から抜け出す決意をする―それは、恋人デボラ(リリー・ジェームズ)の存在を組織に嗅ぎつけられたからだ。自ら決めた“最後の仕事”=“合衆国郵便局の襲撃”がベイビーと恋人と組織を道連れに暴走を始める―。(オフィシャルより)


理屈抜きで、楽しかったです。
天才的な逃がし屋の映画といえば、過去何度か観たあんな感じの映画かなと思っていました。確かにもの凄いドライビング・テクニックに魅せられました。それも、その車が何とスバルのインプレッサWRX!!です。

しかし、この映画の魅力はそこだけではないのです。
その神業のカー・アクションがすべて音楽とシンクロしているのです。ギア・チェンジもワイパーもターンも、車のクラッシュさえも音楽にシンクロします。
全く見たことのないカー・アクションです。
逃がし屋の仕事を終えて車から降りても、主人公ベイビーが珈琲を買って仲間のアジトまで歩くシーンの道すがらの人々の動きなどが、すべてベイビーの聴いている音楽にシンクロしているのです。この様々な仕掛けがとても楽しく、もうご機嫌なミュージカルでした。

物語の内容も実際面白かったです。
彼がiPodで音楽を聴きながら運転する訳、それは悲しい過去と耳鳴りを消すことができるから。そんな設定で、やはり音にまつわり物語が進みます。
多くの音楽と、それに対比する聴覚障害者の育ての親の存在。
そしてベイビーの耳鳴りの結末は。
どのように物語が進んでいくのか想像する余裕が無いスピーディーな展開でした。

また、登場人物がそれぞれ魅力的なキャラクターです。まあ、ケヴィン・スペイシーやジェイミー・フォックスなど悪役も豪華キャストですし、ヒロインのデボラは可愛いし(ここ大事。シンデレラの主役のリリー・ジェイムズでした)、組織のボスの甥もなかなか可愛い笑えるキャラで良かったし。
育ての親との関係も細やかに描かれていて良かったです。
この映画は音楽とスピードが命だからこそ、育ての親とのゆったりとしたシーンや音の無い手話などに情感が込められています。ここも見どころでしょう。

最後のシーンなどいろいろ書きたいことはあるけれどネタバレになりますし、もっともネタバレまで書いたとしても、このカー・アクションと音楽とのシンクロは結局観ないと伝わりません。

仙台ではフォーラム仙台で上映中ですが、これから上映館が広がるようです。
私は大画面大音量でも再度観たいと思っています。

カー・アクションが苦手な方は、ミュージカルだと思って観ても後悔しないでしょう。
お勧めです。

2017年5月7日日曜日

Mr.ホームズ 名探偵最後の事件

以前からこのブログに書いているように、私は大きくなったら「探偵になる」と決めていました。あれから結構大きくなったのですが、まだ探偵にはなれていません。
子供の頃の私にその決意をさせたのは、あの名探偵との出会いが大きかったようです。
もちろん、私の中で名探偵と言えば「シャーロック・ホームズ」に決まっています。

私シャーロッキアンです。(2010/3/16)

ホームズの物語は、コナンドイルの書いた物語(ワトスンが書いたと言った方が良いかな)以外にも、古今東西パロディも含めると、とても多くの作品が残されていますし、今現在もなお、次々に作られ続けています。
天才的な名探偵に振り回される常識人の助手という組み合わせも、ホームズとワトスンの発明だと思います。だからホームズのパロディでなくても、多くの探偵物語のフォーマットとなっています。

私は、昔からホームズに関する書籍も様々読みましたし、映画も観ました。
もちろんテレビシリーズも全部観ています。
最近の映画では、ロバート・ダウニー・Jr.やベネディクト・カンバーバッチなどもホームズとして映画が作られています。私は納得できていませんが。

私にとって「ホームズと言えば、ジェレミー・ブレッド」ということになりますが、この点については、おそらく多くの方に賛同いただけると思います。

さて、最近の映画で変わり種のホームズ映画がありました。




2015年の「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」です。
ミッチ・カリンの小説の映画化だそうです。原作は読んでいません。
シャーロッキアンの私は、当然に観るべき映画でしたが、忙しかったのもありますが、むしろ私のホームズ像を壊される気がして、当時はどうしても足が向かないものでした。
この連休で思い直して、初めて観ました。


あの名探偵ホームズも93歳となり、家政婦のマンロー夫人と彼女の息子であるロジャーと共にサセックスの農場で、ミツバチの世話をして暮らしていた。
世間では助手のワトスンが書いた「名探偵ホームズ」の虚像が広まっている。(なにしろ本物のホームズは鳥打ち帽もパイプも好まないそうだ)
そのワトスンも、マイクロフトもハドスン夫人も既に他界していて、ホームズは孤独感も感じている。
一番の問題は、頭脳明晰なホームズにしても、最近は老化には勝てず、認知症が進んできていることだ。
30年前に担当した事件がきっかけで、ホームズは探偵を引退したのだ。そしてこの田舎に引っ込んで生活している。しかし、その事件の顛末がどうしても思い出せない。
ワトスンが記録したこの最後の事件の内容も、彼の薄れていく記憶とはどうも違うようだ。
ロジャーと会話しているうちに、次第に事件を思い出していく。


あのホームズが自分の記憶が消失していくという老いと積極的に戦いながら、何故か封印されている30年前の最後の事件の顛末を思い出そうという物語です。

その最後の事件についてはワトスンが記録しているのだけど、その内容が「どうも事実と違う」ホームズはそう思います。では何故ワトスンは事実と違う記述をしたのでしょうか。

その事件が、探偵を引退して今の人生を過ごすことになった理由なのに、事実を思い出せないということは、頭脳明晰なホームズだけにつらいものでしょう。

なお、途中の回想で、ホームズが戦後の日本に来て真田広之が扮する梅崎に会うエピソードがあり、原爆直後の広島を歩きます。この部分のエピソードはこの映画に本当に必要なのかちょっと疑問に思いました。原作を読めば理解できるのかも知れませんが。

この映画の中で、ホームズはいくつかの謎を解きます。
そして、その謎解きをなぞることにより、ホームズは過去の悲しみを発見します。

この映画はホームズの明解な推理を楽しむ映画ではありませんでした。
イギリスの美しい田舎の風景の中で、人生を振り返り、老いを生きる物語です。
死が迫っていることを感じ、ホームズは孤独の中で、
「人生でやり残したことはないか」
「目の前の家政婦とその息子にできることはないか」
そんな思いで最後の行動をしているのでしょう。

この物語は、主人公がシャーロック・ホームズだから成立する話しなのだけど、
私は「ホームズの老いなんて見たくない」、
そんな複雑で寂しい思いを持って、この映画を観ました。

皆さんに推薦して良い映画なのか、少し迷います。
シャーロッキアンの方には賛否両論がありそうです。
シャーロック・ホームズの映画としてこだわらなければ、良い映画だと思います。
イアン・マッケランの演技も素晴らしいものだと思いましたし、映画の最後には爽やかに感じる人もいると思います。
どちらにしても「観て失敗した」ということにはならないと思いますが。






2017年5月6日土曜日

ラ・ラ・ランド



「ラ・ラ・ランド」
封切りの頃に観て、ゴールデンウィークで2回目を観ました。
もう語り尽くされている映画でしょうが、1回目ではブログに書く余裕がなかったので、今回書いておきます。

舞台は夢を追う人々が集うLA・ハリウッド。
女優を夢見るミアとジャズピアニストのセバスチャンの物語。
オーディションを落とされ続けている傷心のミアが、ふとピアノの音色に誘われて入った店で演奏していたセバスチャンに会う。しかし、セバスチャンも好きなジャズを弾いたためにクビになったところであり、最悪の出会いになる。
その後パーティで偶然に再会した2人は、お互いの夢を語り、励まし合いながら、惹かれ合うようになる。


第89回アカデミー賞では、デイミアン・チェゼル監督が史上最年少32歳で監督賞を受賞したほか、エマ・ストーンの主演女優賞など計6部門で受賞しました。

久しぶりの「ザ・ミュージカル」と言うべき映画です。
ミュージカルが嫌いと言う人も多いでしょうが、実は私、ミュージカル好きです。映画も舞台も結構観ています。
この映画は、そんな我々が昔から慣れ親しんでいた数々のミュージカル映画を強く意識して作られた映画です。オマージュというか既視感のあるシーンが多いですが、まあ一歩手前で止めているところでOKです。

冒頭の渋滞のハイウェイでの群舞から、私はもう楽しかったです。
この映画に出てくる音楽もダンスも、とても上質なものだと思います。

物語もどこかで見たような気もする展開ですが、いつの世にも存在する個人の夢と2人の愛とのすれ違いでしょうか。
お互いの夢が叶わないうちは励まし合いながら心も一致しているけれど、どちらかが成功しかけるとそこに微妙な歪みが生じてきます。
夢を掴むまでがんばるべきなのか、相手のためにもどこかで妥協すべきなのか、このジレンマも良くわかります。私達の業界でも感じる方は多いでしょうね。

そして、2人が選択した未来は...
2人の夢は叶ったのか...
2人の幸せは叶ったのか...

ツッコミどころはたくさんあります。
たとえばセバスチャンがあんなにストイックにジャズにこだわっている設定なのに、彼から発せられる音楽は、彼の憧れているジャズとは言いづらいものだと思います。
ここは致命的だと思うのですが。
また、ミアの一人芝居の顛末についても、かなり強引なストーリーだと思います。

まあ、言おうと思えばいろいろありますが、ネタバレを避けたいし、この映画ではそんなことは本質的なものでは無いと思っています。
そもそもミュージカルにリアリティを求めても仕方ないと思っていますし、ミュージカル映画はファンタジーであって、その評価は「好きか嫌いか」しかないと思っています。

ええ、私は好きですよ。時間があればまた3回目を観たいと思っていますし、ブルーレイなどが発売されたら買うと思います。
まだ観ていない人は、お勧めです。
ミュージカル嫌いの人でも、そこまで違和感はないと思います。
そろそろ上映期間も終わると思いますが、できればミュージカルは映画館で観た方が良いと思います。

終盤のあのシーンが泣けるという友人がいました。
あそこが泣けるという人は、自分の人生に重ね合わせて泣けるのでしょうね。
「つかんだ幸せ」と「つかめなかった幸せ」ですね。
今度酒を飲んだときに追求してみましょう。




2017年5月5日金曜日

クリード チャンプを継ぐ男

「ロッキー」は好きですか?

「ロッキー」と言えば1976年のボクシング映画です。
アカデミー賞作品賞も取った映画で、シルベスター・スタローンを一気にスターに押し上げた映画作品です。観てない人も知ってはいると思います。
スポ根世代の私には、感情移入しやすい真正面の映画でした。
その後の仲間内のトレーニングのBGMは「ロッキーのテーマ」でした。あれは燃えます。

人気の映画ですから、続編が次々に出ました。
「ロッキー5/最後のドラマ」で終わったと思ったら、その後「ロッキー・ザ・ファイナル」が出て、「まだやるの?」て思ったりしました。

このロッキー・シリーズに「更にまた続編が出た」と昨年聞きましたが、さすがに食傷気味になっていたので、昨年は観なかったのです。
しかし、実は少し気になっていまして、このGWにやっと観ることができました。



「クリード/チャンプを継ぐ男」です。

結局観て良かったと思います。
今回は、さすがにロッキー自身がリングに上がって戦うのではないのですが。
今更ですが、私と同じように観ていない人のために、ちょっと感想を書きます。

あのロッキーのライバルで後の親友であったヘビー級チャンピオンアポロ・クリードに息子がいた。アポロが亡くなってから生まれ、なおかつ非嫡出子であった息子、アドニス・ジョンソン(ドニー)は、自分の父があのアポロだったことも知らないで育った。
その後、父を知り、自分に流れている血も知り、ボクシングを始める。
しかし、父のいたボクシングジムでは、満ち足りた生活をしているドニーをハングリーなボクシングには向かないと思っていて、ドニーは相手にされない。
どうしても強くなりたいドニーは、フィラデルフィアに行って、父のライバルであったロッキーを尋ねて、トレーナーになって欲しいと願い出る。
ロッキーは心身ともに歳を取っていて、ボクシングに戻るつもりはない・・・

こんな感じです。
今回の主人公はドニーです。

もちろんロッキーはトレーナーとしてドニーを育てます。ロッキーも主人公です。
父を知らないドニーにとってボクシング以上のものを与えます。

ドニーの
偉大な父を持つ息子の葛藤...
名前を隠して戦おうとする気持ち...
その後、偉大な名前「クリード」を背負って戦う決意...
そんな精神的な成長も描いています。

あとは、想像どおりの物語と、想像どおりの興奮と、想像どおりの感動が待っています。
それでいいんです。
この映画は間違いなくロッキーの続編です。
そしてドニーの最初の物語です。

シャドウ・ボクシングで、鏡の前の自分に向かっているドニーに、ロッキーが言います。
「そこにお前を睨んでいるヤツがいるだろう。最強の敵だ」
「おまえがリングにあがるたびに、そいつは立ちはだかってくる」
「それは、ボクシングでも人生でも同じだ」

それほど深いことは言っていません。
でも、いいですねぇ。
いかにもスポ根的な台詞です。

私達がロッキーで観たいところは、ちゃんと用意してくれています。
常連客のニーズを満たしながらも一見の客にも満足させるお店のような気配りが隅々までなされています。

ロッキーに対するエイドリアンのようなドニーに対するビアンカの存在や、アポロの妻でドニーとは血の繋がらないメアリー・アンによる愛情なども、ロッキーシリーズには欠かせないものです。

もちろん、ボクシングのシーンは長回しのとても迫力があるもので、ロッキーとアポロの死闘を勝とも劣らないものだったと思います。
「今回は別の音楽で、ロッキーのテーマは無いのか」と思っていると、「ここで来たか」というシーンで流してくれます。やはりこの曲を聞くとテンション上がりますね。
そして「早朝のフィラデルフィア美術館の階段」のシーンです。
「そうそう、これを見たかったんだよ」そんな満足感でした。

筋は単純ですよ。想像できます。
でも想像どおりだから嬉しいのです。
こんな映画が好きですねぇ。




2017年2月6日月曜日

マグニフィセント・セブン




黒澤明監督の映画「七人の侍」を西部劇にリメイクした映画が「荒野の七人」です。
どちらも傑作です。
そして今年また、このリメイク映画ができました。
「マグニフィセント・セブン」です。

リメイク3作目を創る意味があるのでしょうか。
(もちろん、宇宙版もあったけれど私は数に入れませんし、「続・荒野の七人」から始まる3作も「七人の侍」のリメイクの路線ではないのでこれも数えません)
何作目であっても、この「七人(セブン)」を名乗った時点で、過去の名作と必ず比べられる試練が待っているのです。余程の名作でない限り、必ず叩かれる運命の映画です。

かなり不安になりながらも、やはり「荒野の七人」のリメイクなら観たいという気持ちと、私の好きなデンゼル・ワシントンが出るということもあるので、とりあえず観ることにしました。

結論、観て良かったです。
久しぶりに正統派の西部劇を観ました。
お約束の銃撃戦もかなり迫力のあるものでした。
七人も魅力的で、面白いものでした。
映画としては、観ても損はしません。

ただし...(やはり...)
この映画は「七人の侍」のリメイクですよね。
そう考えてしまうと若干弱いですね。
「七人の侍」では、あの激しい戦闘シーンの中にもしっかりと人間を描いていました。
「荒野の七人」も、そこは描いていたと思うのです。

今回の7人は、とても今日的なチームでした。
つまり、黒人、白人、アジア人、メキシコ人、ネイティブ・アメリカンの混成の7人です。(もしかするとあの二人は同性愛者かも知れませんし)
そして、助っ人探しに来るのが女性で、しかも直接銃を持って戦う女性です。
これは新大統領に見せてやりたいポリティカル・コネクトネスの世界です。

しかし、この一癖も二癖もある7人が、何故この戦いに入り込んだのか、そこがあまり描かれていません。何か参加の仕方が唐突なのです。リーダーのチザム(デンゼル・ワシントン)だけは強い動機があったことが後で分かるけれど。その理由に皆を巻き込んだだけなら、映画としてまずいでしょう。
単純な金のためでも、正義のためでも何でも良いから、もう少し各々の動機付けを見せて欲しいのです。そこの描き方が少なかったと思います。そうでないとあそこまで命をかける状況の説得力が無いのです。

「荒野の七人」のハリー(ブラッド・デクスター)が死ぬ直前に、クリス(ユル・ブリンナー)が「実はこの村には大金が隠されていて....」と説明し、ハリーが命をかけた意味に満足して逝かせてあげるシーンが印象的でした。
ああいう何かが欲しかったと思います。

「七人の侍」は207分、「マグニフィセント・セブン」は133分だから、どうしても掘り下げる時間が無い、もしくは、編集時にカットされた、そんな意見も有るでしょう。でも「荒野の七人」は128分です。やはり工夫次第だと思うのです。
おそらく監督はそこ以外にこだわりたかったのでしょう。
でも、私はこの種のチーム戦の物語は、仲間を集めるところがとても面白いと思うのですけどね。

「七人の侍」「荒野の七人」の魂を引き継ぐのなら、外見的な多様性よりも、心の多様性にも丁寧に触れて欲しかったです。
今回のクリス・ブラットやイーサン・ホークも良かったけれど、思い出すと「荒野の七人」のマックイーンもブロンソンもコバーンも皆良かったなぁ。豪華だったなぁ。また観よう。

ここまで書いているのは「マグニフィセント・セブン」が傑作にチャレンジしたからで、どうしても比較したくなっただけです。
この映画は本当に面白いんですよ。
かなり人は死ぬけれど、残酷シーンでもないし、誰にでもお勧めの娯楽映画です。


ここまで書きながら「七人の侍」も思い出しています。
菊千代(三船敏郎)の名台詞がありました。
人間と社会を深く掘り下げながら、とてつもなく面白い娯楽作品として成立させています。
やはり、何度もリメイクのベースになって、世界の数々の作品からオマージュを捧げられた「七人の侍」は凄い映画でした。


やい!お前たち!一体百姓を何だと思ってたんだ?仏様だとでも思ってたか?ん?
笑わせちゃいけねえや!百姓くらい悪ずれした生き物はねえんだぜ!
米出せっちゃ、無え!麦出せっちゃ、無え!何もかも無えっつんだ!ふん!
ところがあるんだ。何だってあるんだ。
床下ひっぺがして掘ってみな!そこになかったら納屋の隅だ!
出てくる出てくる・・・瓶に入った米!塩!豆!酒!
山と山の間に行ってみろ!そこには隠し田だ!
正直ヅラしてペコペコ頭下げて嘘をつく!何でもごまかす!
どっかに戦でもありゃあすぐ竹槍つくって落ち武者狩りだ!
よく聞きな!百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ!ちきしょう!おかしくって涙が出らあ!
だがな、そんな「けだもの」をつくったの、一体誰だ?
お前たちだよ!侍だってんだよ!馬鹿野郎!
戦の度に村を焼く!田畑踏ん潰す!食い物は取り上げる!人夫人にコキ使う!女は犯す!手向かや殺す!
一体百姓はどうすりゃあいいんだ!百姓はどうすりゃあいいんだ、百姓は・・・
ちきしょう・・・・ちきしょう・・・!












2017年1月31日火曜日

チリ33人 希望の軌跡

この3週間は、講師出張のため、新幹線などの移動が長く、その分車内で映画を観る時間が取れました。この1週間で、立て続けに4本観ました。
少しずつ感想を書きますが、まずはこの映画です。

「チリ33人ー希望の軌跡ー」



あの世界中が固唾を飲んで生還を祈った2010年のチリ鉱山落盤事故から、もう6年半経つのですね。東日本大震災前後は時間感覚が無くなっています。
さて、生還直後から話題になった事故の映画化ですが、アントニオ・バンデラス主演で2015年に完成しました。

100年以上の歴史を持つサンホセ鉱山で、大きな落盤事故が発生した。
坑道の奥深くに33人が閉じ込められてしまう。
食料は3日分しかない。
地上では生存の可能性を疑問視し、しかも更なる落盤事故が起こる可能性もあり、一時救出が躊躇される。
地下700mの避難所の33人には様々な困難が立ちふさがるが、マリオを中心に団結し、希望を持って救出を待つ。
一方地上では、ゴルボルン鉱山大臣の指揮の下、国際的な救助チームが組成され、本格的な救助が開始される。


この映画は実話ですので、結果は世界中の皆が知っています。
「おそらくこんな感じの映画だろう」って想像ができ、特に公開時には観ていませんでした。しかし、救出されるまでの69日間に、あの地下では何が行われていたのだろうかということに、少し興味があったので、今回映画と言うより事実を確認したくてiTunesで観たのです。

映画としても、面白かったです。
結末は知っているのに、途中で涙が出そうになりました。
あのような非常事態には、本来の役職とは別に自然にリーダーが出るのだという事実と、リーダーがいなければ生き残ることはできなかっただろうという事実を確認できました。
彼は希望を失った仲間に希望を持たせ、生き残るための規律を持たせ、仲間は団結しました。
また、地上でも使命感と情熱を持ったリーダーが、周りを説き伏せて救出に当たらなければ、この救出劇は始まることすら無かっただろうという事実も確認できました。
33人とその家族についても、とても良く描いています。
ここにも様々なドラマがあります。

映画作りとして言いたいことが無いわけでもありません。
でも世界が知っている事実を曲げる訳にもいきません。
その制約の中で面白い映画に仕上がっていると思います。

観て良かったと満足しながら名古屋に向かいました。




2016年12月28日水曜日

この世界の片隅に


戦争を時代背景にした、広島を舞台にしたアニメーション映画と聞けば、
「はだしのゲン」や「火垂るの墓」を連想します。
そう思うと、とても辛くて、この映画から足が遠のいていました。

それでも評判が良いし、辛さとは別の映画だという話しも聞こえてきたので、だんだん観ようかなと思い、観ることに決めました。
と思いながらも、年末忙しいので延び延びになっていたのですが、先日レイトショーでやっと観ることができました。

観終わって呆然としました。
涙は出ませんでした。
そういう種類の映画でもなさそうです。
もちろん泣いている人もいましたけど。
帰り道、誰とも話しをしたくない気持ちになりました。

この映画に安易なコメントなどできません。

確かに、数日経ちましたので、このブログで私なりの分析もできそうです。
いかにも映画を観ています的な、気の利いたコメントも言えるかも知れません。
でも、コメントや分析をすればするほど、この映画の本質から離れそうです。

映画評論を職業にしている人の話こそ、先に聞かないでください。
彼らの評論は、すべてがそうかも知れないし、すべてが違うような気もします。

こんな体験は、映画ではとても珍しいです。
昔、コンサートで圧倒的な演奏を聴いて、呆然としたまま、誰とも何も話したくない気分で会場を後にした気分を思い出しました。

「コメントできないならブログなんか書くな」と言われそうですが、観ても良いと思っている人がいたらその人に「とにかく観てくれ」と言いたいだけのブログを今回初めて書きたいのです。

これは戦争映画ではないと思います。
彼女の生き方の環境に戦争もあったと感じています。
でも、それすらも、観た人それぞれの感じ方が違う映画のはずです。


できるだけ、誰かの解説は聞かず、読まずに、観てください。
だから、今回は「あらすじ」も書きません。

音響の工夫もあるので、できたら映画館で観た方が良いでしょう。
年明けに全国ロードショーが決まったようです。



2016年12月18日日曜日

ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー

観ましたよ。初日に。

「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」

これ好きですね。



物語の舞台は、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』の少し前。
銀河全体を脅かす帝国軍の究極の兵器<デス・スター>。無法者たちによる反乱軍の極秘チーム<ロ―グ・ワン>に加わった女戦士ジン・アーソは、様々な葛藤を抱えながら不可能なミッションに立ち向かう。
その運命のカギは、天才科学者であり、何年も行方不明になっている彼女の父に隠されていた・・・。(公式より


この映画のポスターには「もうひとつの、スター・ウォーズ。」と書いてあり、スター・ウォーズのシリーズ1~7に続く歴史(正史)のスピンオフ作品です。
スター・ウォーズの世界では、全銀河に広まる帝国軍の恐怖の独裁とそれに対向する反乱軍との戦いが描かれています。
舞台は全銀河だから当然宇宙のあちこちで無数の物語があるはずで、ルークやハンやレイア達だけでない物語を描くのだと理解してます。

ディズニーに版権が移って、シリーズの7から続きが始まっただけでなく、このスピン・オフも始まれば、これから無限にスター・ウォーズが楽しめそうです。
これはもう老後の楽しみの一つですね。

さて、実際にこの映画を観てみたら、スピン・オフとかサイドストーリーなどというより、完全に正史につながる物語でした。エピソード3.9くらいの物語です。

映画の中身としては、新しいキャラだけで物語を進めるために、どうしても人物紹介や設定で前半を使ってしまっています。そこは仕方ないところですが、それぞれが魅力的でした。

ジン
本作のヒロインですね。「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズです。先日観た「インフェルノ」にも出ていましたが、私はジンの役の方が良かったです。エピソード7のレイちゃんごめん、ジンの方が良いかも。

キャシアン
反乱軍の情報将校です。イケメン枠ですね。ジンと反対のクールな役どころです。

チアルート
フォースを信じる武術マスター。映画館を出るときに同じエレベーターにのった学生が、ずっと「ドニー・イェン、最高。ドニーイェン、ヤバイ」を言い続けていました。そのとおりだと思います。

ベイズ
チアルートとの友人、武器のエキスパートです。熱い思いを持った勇者の雰囲気が良いですね。このチームで友だち一人選べと言われたら彼かな。ああ、一人だけならジンか。

ボーディー
元帝国軍のパイロット。最後の方に個人的見せ場は少しあるけれど、もう少し出番があっても良かったかな。残念ながら次回は無いけど。

K2SO
元帝国軍の警備ドロイド。C3POのように話しができるドロイドですが、むしろチューバッカの役割もしていますね。だんだん人間に見えてくるんですよね。そしてドロイドに涙するとは。

これらの人物達(新ドロイドも含めて)がローグ・ワンというチームを作って戦うのです。
それぞれは最初それほど魅力的に見えないのですが、後半の展開に経て、どんどん魅力的になってきます。

あまりにも有名で熱狂的ファンも多い映画ですから、何を創っても賛否有るでしょう。
私の感想は「とても良かった」です。
お馴染みのメカ、お馴染みの数人(人?)のキャラクターが出るし、敵の要塞の内部は必ず深い吹き抜けがあるという構造や、クライマックスには必ず狭い橋の上でバトルがおきるなどのお約束まで、古くからのファンが喜ぶ仕掛けをしています。(あの構造って強度的にも導線的にも問題ないのかなって、いつも思うけど)
間違いなく正統なスターウォーズの物語であることをしっかりと示しています。
特に感心したのは、デス・スターが本当に凶悪な最終兵器に見えること、ダース・ベイダーが本当に怖くて強く見えることでした。
正史シリーズ7では、悪役がすべてしょぼい感じがしましたし、スター・デストロイヤーもデス・スターより大きいだけで、それほどの威圧感が感じられなかったことを思い出すと、今回のローグ・ワンはむしろ正しいスター・ウォーズだと思いました。

私の中では、正史7編の物語と比べても、トップレベルだったと思います。

この物語の先の答えは決まっています。
だれでも知っているエピソード4に続くのです。
エピソード4の冒頭では、デススターの設計図は既にレイア姫が入手しており、それをR2D2に託し、オビ=ワン・ケノービに渡そうとしていました。
だからその設計図はレイア姫に届くことが答えと誰でも知っています。
これはネタバレにはならないし、ラストでどんでん返しのような物語を創ることができないのです。
その制約の中で、監督はすばらしい映画を創りました。
興味のある方はできるだけエピソード4を観てから行った方が良いでしょう。
前回のエピソード7「フォースの覚醒」は、エピソード6からつながる物語でしたが、どうしても過去のエピソード6まで観ていないと楽しむことができないわけでもありませんでした。
実際に私と一緒に観たY君は、スターウォーズをまったく観たことがなくて、充分楽しいでいたようでしたから。
今回のローグ・ワンも、前作を観ていないとダメとまでは言いませんが、今回はなにしろエピソード4に直接つながる物語ですので、エピソード4を観てから行った方が良く理解できて、楽しめます。
シリーズを観ていなれば、全部観る必要はありません。まずはエピソード4だけでも観て欲しいと思います。
どうしても無理なら、ローグ・ワンを観てからでもエピソード4を観ましょう。

スター・ウォーズ、エピソード4のサブタイトルは「新たなる希望」です。
そして本作のキーワードは「希望は、死なない」です。
「死ぬもの」があって、「死なないもの」がある。
死なない「希望」とは。
本作を見て、エピソード4「新たなる希望」を再度確認しましょう。
そして、この映画に興味があるのなら、なるべく早く観てください。
これだけ有名な映画ですから、注意していてもまもなくネタバレが始まります。

観れば、誰でも楽しめるはずです。

科学的に考証して論評する映画ではありません。
この世界を受け容れて、楽しむ映画です。

フォースを感じれば良いだけです(笑)
May the Force be with us.










2016年11月21日月曜日

シーモアさんと、大人のための人生入門





シーモア・バーンスタイン
89歳
ピアノ教師
一流のピアニストとして活躍しながらも50歳で突然現役を引退
その後をピアノ教師として生きてきて、今なお現役

その彼の生涯を描いているドキュメンタリー映画です。
彼の波乱の人生を見て、彼の言葉を聞き、タイトルのとおり「大人のための人生入門」になるのです。

監督はイーサン・ホークです。
イーサンは、映画監督であり、俳優であり、作家であり、このブログで紹介した映画では「6歳のボクが大人になるまで」「ビフォア・サンライズ」や「ビフォア・サンセット」に出ていました。

イーサン自身が人生に行き詰まりを感じていたときに、シーモアに出会い、彼の演奏と人柄に魅了され、人生のヒントをもらい、これを映画にしようと決意しました。

「音楽の教師が生徒にできる最善のことは、生徒を鼓舞し、感情的な反応を引き出させること。音楽のためばかりではない。人生のあらゆる場面で、重要なことだから」

映画の中のシーモアの言葉ですが、彼の鼓舞は穏やかな品のある語り口で行われます。
ピアニストとして成功した経験、朝鮮戦争従軍中に演奏で慰問してまわったが結局音楽で生命は救えなかったという辛い思い、演奏会に関する様々な思い、それらを経験してきた彼の言葉は示唆に富み、その言葉に触れた人は、何らかの鼓舞をされるでしょう。

「音楽はいっさいの妥協を許さず、言い訳やごまかしも受け付けない。そして、中途半端な努力も。音楽は我々を映す鏡と言える。音楽は我々に完璧を目指す力が備わっていると教えてくれる」

映画の終盤では、シーモアがこの映画のために33年ぶりにコンサートを開きます。そのコンサートのためにピアノを選ぶところも描かれていて、シーモアの音楽に向かう思いが垣間見えます。
とても美しい調べを聴きながら、音楽を通して人生を学ぶことになります。

「音楽に対する最初の反応は、知的な分析なしに起こる。たとえば才能豊かな子供は、音楽の構造的なことや背景を知らずとも、音楽をとても深く理解できる。こうした無知さには、大人も学ぶことがある」

シーモアの友人や生徒達との交流も描かれ、直接シーモアを知っている彼らがシーモアの人柄を語ります。
そして、映画の終盤では、監督のイーサン自身がシーモアと真摯に語り合います。
そのシーモアの言葉と音楽から、イーサンと私達観客は、まさに人生入門するのです。

「人生には衝突も喜びも、調和も不協和音もある。
それが人生だ。避けて通れない。
同じことが音楽にも言える。不協和音もハーモニーも解決もある。
解決の素晴らしさを知るには、不協和音がなくてはならない。
不協和音がなかったらどうか? 和解の意味を知ることもない」

全国的にも上映館は少ないようです。
仙台ではフォーラム仙台で今週中上映しています。
機会が有れば観ても良い映画だと思います。





2016年11月7日月曜日

秒速5センチメートル

先日「君の名は。」について書いたときに、以下の様な書き方をしました。

『しかし、私はこの結末でない方が物語として良かったと思うのです。
あの「誰そ彼どき」からの余韻のまま、「秒速」のような終わり方でも良かったのではないでしょうか。』

この「秒速」とは、同じ新海誠監督の「秒速5センチメートル」(2007年)のことです。
ある程度の割合の方はご存じかと思って書いたのですが、私の周りの人が意外とこの映画を観ていないことが分かりました。(まあ、おじさん達は観ないか)

そこで「「君の名は。」を気に入ったのなら、この映画を一度観てください」という気持ちで紹介します。



「秒速5センチメートル」は、新海誠氏の作品の中で私が一番好きな作品です。
何度も観ています。

一人の少年「遠野貴樹」を軸にした三作の連作アニメーションです。

秒速5センチメートルとは、桜の花びらが舞い散る速度のこと。

『桜花抄』
中学生になった貴樹が、小学校の同級生で転校して文通を続けている篠原明里に会いに行く。電車で向かうが、大雪で止まり、明里との約束の時刻を大幅に超えていく。明里は待っているのだろうか。

『コスモナウト』
種子島の高校生になった貴樹を慕う後輩の澄田花苗からの視点で描く。優しいのにどこか遠くを見ている貴樹。貴樹は時々誰かに携帯のメールを打っている。誰に打っているのだろうか。

『秒速5センチメートル』
社会人になった貴樹。理紗とも付き合うが、いまだに魂は彷徨っている。
貴樹は会社も辞め、何かを捜して街を彷徨う。


過去の感情を整理できないまま人に触れ、人を傷つけ、そして自分も傷ついている貴樹。
山崎まさよしの"One more time, One more chance"が流れる中、映画終盤で貴樹が街を彷徨うシーンがとてもせつないです。

誰にも覚えがあるような感情ですが、そのままトラウマになるのか、いつ立ち直るのか、皆通った道かも知れません。


この「秒速5センチメートル」はピンと来ないと言う人と、心を鷲掴みにされ泣けてたまらないと言う人がいます。

この映画のストーリーだけ話しを聞いても、おそらく泣けません。
ストーリーだけなら大した話しではないと思います。
ただし、映像と音楽と総合力で観客の情感に訴えてきます。

そのときに泣けるのは、この貴樹と明里や花苗や理紗の物語に泣けるのではなく、この映画を観る人自身の過去の物語が甦り、そのときの想いが甦るからでしょう。

過去は忘れることができなくても、整理をすることは必要です。
その過去を思い出に整理できるまでの期間は、人それぞれでしょう。
また、長い期間をかけて無理やり整理できたつもりにしている人もいるでしょう。
この過去を思い出にする作業は、心にとってどれだけの辛くて負担なのか、誰にでも覚えがあることだと思います。

この映画を観た人が、貴樹のように過去を整理できずにいる人や、過去を整理できたフリをして生きている人の場合は、否応なしにその感情を突きつけられる辛い映画なのかも知れません。
もう観たくないというかもしれません。

過去を整理して思い出にできている大半の人が観れば、その当時の感情が蘇ってきて、辛すぎない範囲であの頃の切なさを思い出し、心が揺さぶられ泣けるのかもしれません。

逆に、自分の過去を思い出にする辛さがまったく無かった人なら、この物語を見てもピンと来ないでしょう。


貴樹の彷徨については、「君の名は。」でも似たようなシーンを見ますが、そのエンディングの描き方が違います。そこを前回の「君の名は。」のブログに書いたのです。

「君の名は。」と同様に新海誠氏の映像の美しさは素晴らしいです。

「君の名は。」の大ヒットのお陰で、この「秒速5センチメートル」が、今、仙台チネ・ラヴィータでも上映中です。
長い期間上映しないと思いますが、「君の名は。」を気に入った人なら時間を捻出して是非観て欲しいと思います。





2016年9月25日日曜日

ラサへの歩き方~祈りの2400km

いやぁ、すごい映画を観ました。



「ラサへの歩き方 祈りの2400km」

「五体投地」って知ってますか?
ウィキペディアによると、
「五体投地(ごたいとうち)とは、五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や高僧などを礼拝することである。仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、対象への絶対的な帰依を表す。(以下略)」と書いてあります。

この五体投地を繰り返しながら、チベットの小さな村人達が聖地ラサとその先のカイラス山に向かうのです。荷物を引きながら、夜は道ばたにテントを張って休みます。

お経を唱えながら合掌し、数歩歩いては五体投地するのです。これではなかなか進みません。
その道のりがなんと2400km。
ちょっと調べてみました。
新幹線なら、仙台ー東京間が350km、
新函館北斗駅から鹿児島中央駅が2400km弱です。
その距離を1年かけて巡礼するのです。
五体投地によりラサに向かう村人達は子供も妊婦も老人も含む11人で、その人達の1年の巡礼を描くロードムービーです。

途中、雪山もありますし、川のような水の流れが行く手を塞いでいる場所もあります。
妊婦に子が産まれたり、荷物を運んでいた車が事故に遭ったり、様々なことが起こります。村人達はそれらをすべて淡々と受け容れて、五体投地でラサに向かいます。

一見ドキュメンタリーに見えますが、出演者は全員実際の村人なので、ラサへ向かう五体投地やその表情も含めて皆本物だからでしょう。

とても過酷な旅に見えますが、皆嬉しそうな表情で進みます。
ラサへの巡礼は彼らにとって宗教的に憧れの旅なのです。

手に汗握るシーンはありません。
大怪獣も出ません。男女の入れ替わりもありません。全米も泣きません。
でもその旅を見始めると、もう目が離せなくなります。
そして何故か観終わってから、清々しい気持ちになりました。

全国でも上映されている映画館はほとんどありません。
DVDが発売されることがあるのでしょうか。
もし機会が有ったら、こういう映画も観て欲しいと思います。
そして観た方と、彼らの巡礼について語りたいと思います。



参考までに、予告編の動画のリンクを貼っておきます。
http://eiga.com/movie/84774/video/1/









2016年9月20日火曜日

君の名は。

この映画についてネタバレしないように書くのは、とても難しいですね。

そしてこの大人気、また元々の新海誠(監督)ファン層も大勢いて、何を書いても炎上しそうな気がします。


最初、この映画の予告を観て、

えっ、男の子と女の子が入れ替わる?
「転校生」の焼き直し?
なぜ今?
しかも新海監督が?

疑問だらけでした。

実際、映画を観ないと分かりませんでした。
予告編だけでは、この映画は絶対にわからないですね。
誤解していました。

へー、そんな展開だったの?
結構大きな話しになっています。

伏線もいろいろ張られ、それを物語が進む中で回収されていきます。
でも、何故その現象が必然なのか、何故その道具が使えるのか、何故その人はそう決断したのか、その世界は×××、など論理的に曖昧な部分(もしかすると論理的に誤り?)もあるとは思いました。
まあ、何回か観たら私が納得するかもしれないので、ここでは安易に書き込みはしないことにします。(炎上から逃げているなぁ)

その大きな物語に加えて、新海監督らしい叙情的な景色や心の物語も書き込まれているファンタジーなのだからと考えれば、曖昧に見える細かな設定など消し飛んでしまうような良い映画だと思います。
また、この伏線や設定が理解できない年齢層にとっても、それなりに楽しむことのできる映画になっています。

東日本大震災から5年以上経った今だから上映できるテーマも含まれていると思います。この件について、被災地の人間としてネタバレが可の場面では少しお話ししたいこともあります。いえ悪口ではありませんから。(炎上から更に逃げているなぁ)

ただし、観終わってすぐに感じた違和感があります。
ストーリーとしても悪くないけど、「秒速5センチメートル」の頃の新海さんなら、この結末にしたかな?ということです。

新海監督がメジャーになって、大衆に迎合したとまでは言いません。
この結末は、私自身も含め観客全員が望んでいた結末です。
だから当然に不満ではありません。
しかし、私はこの結末でない方が物語として良かったと思うのです。
あの「誰そ彼どき」からの余韻のまま、「秒速」のような終わり方でも良かったのではないでしょうか。

本当にこれが監督自身ベストと思ったエンディングなのか、メジャーになった(なってしまった)故の方向性なのか、少し考えてしまいました。

重ねて言いますが、不満ではありません。
むしろ、好きな映画です。
もう一度観たい映画に入っています。

気になっている人は、是非観た方が良いとお勧めします。
その上で、ネタバレが構わない人がいれば、いろいろお話ししましょう。

観たことのない方の為の蛇足ですが、
新海監督の映画の特徴として、背景がリアルでとても美しいことがあげられます。
実景をどこまできれいに描けるかというアプローチによる圧倒的な美しさを見ることができます。

今回の背景は特に美しいですね。
これから観る人は特に光の変化に着目して欲しいです。
今回はメジャー作品なので、物量を投じて画を作っていますから。
この背景だけ観るためにお金を払っても良いと思います。
だから新海監督にはメジャーな世界に居続けて欲しいという想いもあります。



あっそうか、幸か不幸かこのブログはコメント欄が無いから炎上はしないのか。




2016年8月30日火曜日

ゴーストバスターズ

ゴーストバスターズ(2016)を観ました。
良いですねぇ、お馬鹿映画。


あの大ヒット映画「ゴーストバスターズ」は1984年ですか。
32年前ですね。
あの大ヒットソング「ーストスターズ!」
一度聴くと一日中頭の中で鳴っていましたね。

ユニークなゴーストが出てきて、とても楽しいコメディでした。
何も考えずに映画館に行って、「あーっ楽しかった」って帰ることのできる映画でした。
あの当時は、4人集まってバックパックを背負って掃除機を持てば、それだけで余興が成立しました。

さて、今回は男性4人の主役を女性4人に置き換えてのリメイクです。
最近の映画は昔の名前でヒットを狙うという安易なリメイクや続編が多すぎます。
あれだけのヒットした映画を今再び作る意味がはたしてあるのか、このゴーストバスターズもそんな思いで見に行きました。
確かに文句を言いながらも「ゴーストバスターズ」の新作が出たというだけで、観に行った段階で、制作側の思うつぼな状態だったのですが。

さて、観てどうだったのか。
いや面白かったですよ。
何しろ32年も経っているのです、SFXの技術が比べものにならない進化をした中でゴーストを作っています。それだけでも観て嬉しいですよ。

昔のファンにも配慮されていて(ゴーストバスターズの名前を使ったからには当たり前ですが)、ファンご存知のゴーストが出たり、お約束の展開があったり、前作の出演者もカメオ出演したりします。
ここは詳しく書いてしまうとネタバレになりますので我慢します。

何故男性が女性に変わったのかの理由ですが、アメリカでは女性に変更になったことでいろいろ批判が有ったらしいですが、私は4人それぞれのキャラが立っていて悪くなかったと思いました。
この変更は、おそらく単純に前作と比べられてしまうことを避けたのだと思います。
注文があるとすれば、もう少し4人のキャラを一人一人丁寧に描いても良いかと思いました。
まあ、続編が有りそうだから、そこで描けば良いだけですが。

とにかくコメディは、難しい評論などせずに楽しいか楽しくないかだけですからね。

今回の特筆すべきは、黒一点の男子です。
最高のお馬鹿キャラですね。
ゴーストバスターズ事務所の受付として雇用した男子ですが、とにかくお馬鹿。
演じているのはマイティ・ソーのクリス・ヘムズワースで、すでに人気者ですが、まさかのお馬鹿キャラでも新たな人気が出るでしょうね。
エンドロールでは主役ですからね。

コメディは、理屈じゃないから合う合わないは有ると思います。
でも、結論として観て良いと思いますよ。
前作を観ていなくても、何の予備知識もなくても楽しめると思います。
ただし、前作のネタもちりばめられているし、カメオ出演発見の楽しみも有るので、可能なら前作を観てからの方が、より楽しめるでしょうね。

疲れたとき、嫌なことがあったとき、気分転換には特効薬だと思います。
「あーっ楽しかった」とは言えると思います。


















2016年8月11日木曜日

シン・ゴジラ

12年ぶりの日本製ゴジラ映画です。評判が良いようです。



往年のゴジラファンも納得させながら、今ゴジラを作る意味とは何なのか。
ハリウッドではなく日本で作る意味とは何なのか。
「ゴジラ」というビッグタイトルを掲げれば、何を作っても注目されるので、制作側のハードルはかなり高いと思います。

総監督・脚本は「エヴァンゲリオン」の庵野秀明、監督・特技監督は樋口真嗣、主演は長谷川博己です。
なお、日本製のゴジラを表現するために、野村萬斎にモーション・キャプチャーをお願いしたとのこと。映画を観ているときには野村萬斎による動きとは知らず、観終わってからの情報だったのですが、後からなるほどと思いました。
間違いなく、今の日本で作る意味があった映画だと思います。

この映画は、既に巷の評判になっているし、内容も今更解説するまでもないでしょう。ネタバレ無しにこのブログで感想を書くのも難しいのですが、ちょっとだけ私の感想を書いてみます。

もちろん重要なネタバレに気をつけながらも少し内容に触れますが、一切のネタバレは困るという方は、念のために以下を読まないで映画に行ってください。
あの映画に予備知識は不要ですから。

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さて、この映画、私も予備知識まったく無しに観てきました。
私の想像していたものと方向性が違いましたが、観て良かったと思います。

まず、ゴジラです。
ゴジラがとてもパワーアップしています。
歴代のゴジラの中でも最強でしょう。
何しろ一代で進化するのですから。

最初、海で魚類のような形をしているのですが、陸に上がって何代かの進化をし、我々の知っているあの形に進化するのです。

(えっ、進化することもネタバレですか?
この件は様々なところで書かれているでしょう。
本質的な部分ではないから、これはセーフと思っていますが。
えっ、ダメ?
だから「以下を読まないで」って言ったでしょう。)

さて、登場するゴジラが最強ですし、タイトルも「シン・ゴジラ」ですが、実はゴジラが主人公ではありません。
この映画で描かれている主人公は、ゴジラではなく、むしろ日本国の組織です。
具体的な主人公は内閣官房副長官である矢口(長谷川博己)ですが、監督が描きたかったのは矢口をアンチテーゼとする日本の既存組織だと思います。

何らかの大きな事件や事故が起きたとき、日本政府は、各省庁は、どう動くのか。
そこが監督の一番描きたかったところなのでしょう。
この映画のゴジラは、組織が対応すべき厄災の表象として存在しています。
だから「シン・ゴジラ」は怪獣映画と言うよりも災害対策映画と言えるかも知れません。

ゴジラが現れた!
「前例が無い。そんな巨大生物はいない」

自衛隊を出動させるべき!
「自衛隊を動かすことは、世論を考えると難しい」

自衛隊に攻撃させるべき!
「逃げ遅れた人がいる限り攻撃はできない」


様々な議論が巻き起こります。
そこで見られるのは「縦割り」「事なかれ」「先送り」「責任のたらい回し」...
議論は有っても良いですが、時間がかかってすべてが後手に廻ってしまいます。
災害対策や危機管理の際には、すべての決断に即決を求められます。
これは東日本大震災の際にも問題になったことです。

そんな中、日本のリーダーがあっけなく死にます。
(ネタバレですか。これも本質的なところではないので私はセーフだと思っています。)

そして、その後のリーダーの選び方に、日本の重要なテーマが示されています。
(ここはさすがに書かないよ)

このように、日本国が動くことができない中で、ゴジラは進化を続け、被害も次々に拡大します。
日本が手をこまねいている間に、日本だけの問題から世界の問題になってきます。
もし、ゴジラの進化の先に羽が生えたら、世界中に飛んで行くことになったら・・・
そんなことを懸念した世界は、ついに動き始めます。

当然、日本にはアメリカからの圧力がかかります。
「通常兵器では通用しないので核攻撃を!」
東京で核兵器を使うことを要求されます。
日本はどう判断するのでしょうか。

ここからが、後半の見どころです。

さて、歴代のゴジラは単なる怪獣ではないです。
日本人なら知っています。

初代ゴジラとは何だったのか。
その背景に、人間が過去犯した過ちの核や放射能を背負った宿命の存在だったはずです。
ハリウッド版の「恐竜が暴れた」というジュラシック・ワールド的なパニック映画とは本質的に違うのです。

そして、その宿命の存在に対して、我々人類はどう立ち向かうのか。
そのゴジラの本質だけは、この映画も外してはいませんでした。
間違いなく、今回のゴジラは厄災の象徴です。
たとえば、5年前の東日本大震災や福島放射能被害などを表しています。
その後も世界各地で頻発する自然災害、戦争、その他の厄災(怪獣)に対して、人類の英知と決断が試されている映画なのです。

この映画、深読みすればどこまでも深読みできるでしょう。
政府や日本の在り方、国連やアメリカなどに対する外交の考え方、そして自然災害や防衛に関すること、保守の立場でもリベラルの立場でも、この映画を利用して勝手に語ることができそうです。
それはこの映画が望んでいることでも無いでしょうが、国民として日本を再考する良いシミュレーションという意味はあるでしょう。

また、監督が庵野氏なので、エヴァンゲリオンとの類似点を語るのも、ファンの間ではとても刺激的なトークになるでしょう。既にあちこちで深読みの議論がなされているようです。
私は、この類似点については監督が意図したものではなく、庵野監督が作るとこうなるのだと思いますが、これもファンの間で勝手に楽しむことは意味があるでしょう。

登場人物の数の多さと全員の早口セリフによる情報過多がもたらす独特の緊張感はとても上手いと思いましたし、とにかくこの映画は、観てから語りたい要素がとても多いです。

私ですか?
結局、私は純粋にゴジラを楽しみました。

もちろん最初の日本国のシミュレーション部分も楽しみましたが、結局私が楽しめたのは最終的にゴジラと総力戦をやるときの電車や建物の使い方などでした。
(ここは詳しく説明できないから観てね)

この映画を観て2つ分かったことがあります。
私は、まだ怪獣映画から卒業していないこと、石原さとみがあまり好きでないことです。