2017年5月7日日曜日

Mr.ホームズ 名探偵最後の事件

以前からこのブログに書いているように、私は大きくなったら「探偵になる」と決めていました。あれから結構大きくなったのですが、まだ探偵にはなれていません。
子供の頃の私にその決意をさせたのは、あの名探偵との出会いが大きかったようです。
もちろん、私の中で名探偵と言えば「シャーロック・ホームズ」に決まっています。

私シャーロッキアンです。(2010/3/16)

ホームズの物語は、コナンドイルの書いた物語(ワトスンが書いたと言った方が良いかな)以外にも、古今東西パロディも含めると、とても多くの作品が残されていますし、今現在もなお、次々に作られ続けています。
天才的な名探偵に振り回される常識人の助手という組み合わせも、ホームズとワトスンの発明だと思います。だからホームズのパロディでなくても、多くの探偵物語のフォーマットとなっています。

私は、昔からホームズに関する書籍も様々読みましたし、映画も観ました。
もちろんテレビシリーズも全部観ています。
最近の映画では、ロバート・ダウニー・Jr.やベネディクト・カンバーバッチなどもホームズとして映画が作られています。私は納得できていませんが。

私にとって「ホームズと言えば、ジェレミー・ブレッド」ということになりますが、この点については、おそらく多くの方に賛同いただけると思います。

さて、最近の映画で変わり種のホームズ映画がありました。




2015年の「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」です。
ミッチ・カリンの小説の映画化だそうです。原作は読んでいません。
シャーロッキアンの私は、当然に観るべき映画でしたが、忙しかったのもありますが、むしろ私のホームズ像を壊される気がして、当時はどうしても足が向かないものでした。
この連休で思い直して、初めて観ました。


あの名探偵ホームズも93歳となり、家政婦のマンロー夫人と彼女の息子であるロジャーと共にサセックスの農場で、ミツバチの世話をして暮らしていた。
世間では助手のワトスンが書いた「名探偵ホームズ」の虚像が広まっている。(なにしろ本物のホームズは鳥打ち帽もパイプも好まないそうだ)
そのワトスンも、マイクロフトもハドスン夫人も既に他界していて、ホームズは孤独感も感じている。
一番の問題は、頭脳明晰なホームズにしても、最近は老化には勝てず、認知症が進んできていることだ。
30年前に担当した事件がきっかけで、ホームズは探偵を引退したのだ。そしてこの田舎に引っ込んで生活している。しかし、その事件の顛末がどうしても思い出せない。
ワトスンが記録したこの最後の事件の内容も、彼の薄れていく記憶とはどうも違うようだ。
ロジャーと会話しているうちに、次第に事件を思い出していく。


あのホームズが自分の記憶が消失していくという老いと積極的に戦いながら、何故か封印されている30年前の最後の事件の顛末を思い出そうという物語です。

その最後の事件についてはワトスンが記録しているのだけど、その内容が「どうも事実と違う」ホームズはそう思います。では何故ワトスンは事実と違う記述をしたのでしょうか。

その事件が、探偵を引退して今の人生を過ごすことになった理由なのに、事実を思い出せないということは、頭脳明晰なホームズだけにつらいものでしょう。

なお、途中の回想で、ホームズが戦後の日本に来て真田広之が扮する梅崎に会うエピソードがあり、原爆直後の広島を歩きます。この部分のエピソードはこの映画に本当に必要なのかちょっと疑問に思いました。原作を読めば理解できるのかも知れませんが。

この映画の中で、ホームズはいくつかの謎を解きます。
そして、その謎解きをなぞることにより、ホームズは過去の悲しみを発見します。

この映画はホームズの明解な推理を楽しむ映画ではありませんでした。
イギリスの美しい田舎の風景の中で、人生を振り返り、老いを生きる物語です。
死が迫っていることを感じ、ホームズは孤独の中で、
「人生でやり残したことはないか」
「目の前の家政婦とその息子にできることはないか」
そんな思いで最後の行動をしているのでしょう。

この物語は、主人公がシャーロック・ホームズだから成立する話しなのだけど、
私は「ホームズの老いなんて見たくない」、
そんな複雑で寂しい思いを持って、この映画を観ました。

皆さんに推薦して良い映画なのか、少し迷います。
シャーロッキアンの方には賛否両論がありそうです。
シャーロック・ホームズの映画としてこだわらなければ、良い映画だと思います。
イアン・マッケランの演技も素晴らしいものだと思いましたし、映画の最後には爽やかに感じる人もいると思います。
どちらにしても「観て失敗した」ということにはならないと思いますが。