2015年12月16日水曜日

「正義」は決められるのか? トーマス・カスカート

いわゆる「トロッコ問題」です。

40年ほど前、フィリッパ・フットが考えた思考実験であり、それ以来、哲学、倫理、心理学等々さまざまな立場から考察され、派生問題もたくさん考え出されている問題です。

最近では、ハーバード白熱教室で、マイケル・サンデルがこの問題に触れていましたね。

線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。
このままでは前方で作業中の5人が、猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
この時、たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。
A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。
しかし、その別路線でも別の作業員が1人で作業しており、5人の代わりに1人がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。
A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。

40年間、世界中で議論が続いている問題です。






「正義」は決められるのか? トーマス・カスカート

これを法廷劇に仕立てたのがこの本です。
思考実験を現実の事件にし、登場人物には固有名詞と人格が与えられます。

舞台は2015年、サンフランシスコ。
路面電車の進路を切り替えて5人の命を救った女性が、待避線にいた1人を殺した容疑で裁判にかけられるのです。
女性はオークランド在住のダフニ・ジョーンズ。
最初は、その5人の命を救った行為は評価されるが、待避線にいたチェスター・ファーリーの長女ソンドラが記者会見で有罪を望んだり、命を救われた5人のうちの1人サリー・カリアキディスが感謝を述べたりすると、さまざまな議論が湧き起こるのです。
検察、弁護士、大学教授、心理学者などさまざまな立場からの意見が交錯する中で、「世論の法廷」の陪審員たちはどんな結論を出すのでしょうか。

私は、昔からこのトロッコ問題の設定が、どこか現実離れして空々しい感じがしていました。
「上述の手段以外で助けることができないものとする」
うーん、あくまでも思考実験ですから仕方ないのでしょうが。

そのお馴染みのトロッコ問題に人格を与えただけで現実感が出て、確かに思考実験に深味が増します。

私が法律などの講師をさせて戴くときにも、ここまで具体的にやればもっと理解が深まることもあるなと再度気づかせられました。
本の趣旨とは違うけれど、私はその観点で買いました。


さて、この本の本筋としては、お馴染みの思考実験に上記のとおり人格が与えられ、裁判が進みます。
先に、新聞記事や警察資料により具体的事実が提示されます。
その後、陪審員への進行説明があります。
検察側は、「功利主義についての危険な罠」について述べ、有罪を主張します。
弁護側は、理屈以前に常識と直感から考えても無罪であると主張します。

法廷外でも、大学でクリティカル・シンキングの講座でこの事件が取り上げられたり、オンライン版心理学雑誌におけるチャットの見解が述べられたり、カトリック司教の意見が出たり、ラジオ討論が紹介されたり、大学教授の弁論があったりします。
その中で、とても巧みにイマヌエル・カントやトマス・アクィナス、ディヴィッド・ヒュームやニッコロ・マキャヴェッリなど著名な思想家達の理論を挟んで解説します。

5人を助けるために1人を殺すことが功利主義として正しいのなら、このケースにおいて、橋の上から1人の太った男をトロッコの前に落として暴走を止めることにより5人を助けることは、正義なのでしょうか。

さらに、5人の病人を助けるために、1人の健康な人から臓器を取り出して5人に移植することも(当然臓器を摘出された人は死亡します)、正義なのでしょうか。

さまざまな派生問題についても議論が続きます。

はたして「正義」とは何でしょうか?

「正義」は数で決められるのでしょうか?
「正義」は当事者が誰かで決められるのでしょうか?
また、手段によって「正義」は変わって良いのでしょうか?


このブログを読んでいる皆さんは如何でしょうか?
ダフニさんは有罪ですか?

そして、あなたがそのトロッコの分岐器の側にいたのなら?