小松左京の『果しなき流れの果てに』を久しぶりに読みました。
一昨日のいわき出張の1泊2日のお供としてKindleに入れ、移動の車内、ホテルの部屋、そして帰宅後も一気に読み進めての読了です。
日本SF史に残る金字塔であり、オールタイムベストの常連でもある本作。世代を問わず手に取ったことのある方も多いのではないでしょうか。
私自身、大学生の頃に夢中で読み、読了後に直ぐに2回目を読み、30歳前後に再読した記憶があります。そして今回、実に何十年ぶりかの再会となりました。
やはり、細かな場面の数々を鮮明に覚えていました。
物語は、あまりにも魅力的な謎から幕を開けます。
舞台は白亜紀。火山が噴火し、恐竜たちが逃げ惑う原始の世界。その大地を裂く亀裂から、なぜかけたたましい金属音が響き渡る。そこには、鳴り続ける黄金の電話機があった。
一方、現代(と言っても執筆時の1965年くらいかな)の研究員・野々村は、N大の番匠谷教授から奇妙な発掘品を見せられる。紀伊半島・和泉山脈の白亜紀地層から掘り出されたという砂時計。
なぜその年代の地層にあったのかという謎に加え、砂時計そのものにも決定的な異常があった。
砂が減らないのだ。落ちても落ちても、永遠に砂が尽きることがない。
そして、この謎に迫ろうとした者たちは、次々と忽然と姿を消していく。
ページをめくるごとに提示される不可解な謎。
上質な本格ミステリーを読んでいるかのようなドライブ感で、ぐいぐいと物語へ引き込まれます。
しかし、本作の真価は単なる謎解きにとどまりません。
テーマは「時間」「宇宙」、そして「認識」。
時間の流れとは何か。私たちは何を見て世界を理解しているのか。
宇宙とは、存在とは何なのか。
物語は加速度的にスケールを拡大し、やがて人間の想像力を軽々と凌駕する壮大な地平へと到達します。
ただし、この作品が時代を超えて愛される理由は、アイデアの巨大さだけではありません。
1960年代のSFには、優れたアイデアや理論が主役に立ち、登場人物や物語が単なる解説役に退いてしまう作品も少なくありませんでした。
しかし、『果しなき流れの果てに』は違います。
扱われるテーマこそ超弩級のSFですが、芯にあるのは徹底して「人間の物語」です。
登場人物たちが抱える苦悩や愛情、選択や喪失。それらが物語の重心にあるからこそ、天文学的なスケールの旅路にも血が通います。
そして終盤。
すべての謎が収束し、時間と宇宙をめぐる長大な絵巻が姿を現したあとに訪れるラストシーン。
「やはり、小松左京だ」と唸らされます。
どんなに遠くへ時空の旅をしても、最後に描かれるのは人間であり、人間の感情に立ち返ってくる。
その鮮やかな幕引きには、何度読んでも胸を打たれます。
発表は1965年。今から60年近く前の作品です。
にもかかわらず、今読んでもまったく色褪せていない物語には改めて圧倒されます。
時代背景を感じさせる描写こそあれど、作品の根底に流れる問いは今なお極めて刺激的です。
小松左京の作品は、おそらく手に入るものの全部を読んできたと思います。映像化された『日本沈没』や『復活の日』の知名度と完成度はもちろん圧倒的ですが(できれば原作読んでね。まったく違うので)、個人的な最高傑作を挙げるなら、私はこの『果しなき流れの果てに』を選びます。
久しぶりの再読で、その確信はさらに深まりました。
これを機に、手元の小松作品を少しずつ読み返してみるつもりです。
何十年経っても「また読みたい」と思える作品に出会えること。
それこそが、読書という営みの最大の歓びなのだと実感しています。
