本日はその原子爆弾が投下されて67年目の日です。当時の広島の人口の半数弱がこの原爆で亡くなりました。
毎年8月6日を「原爆の日」と定め、毎年平和を祈る式典が催されています。
今朝も、第67回広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が執り行われました。
海外からも参列も含め、多数の出席者が広島に集まりました。野田首相も参列し、当時の合衆国大統領トルーマンの孫も参列し、71カ国の代表が参列したようです。
私自身、広島の歴史も当然知っていますし、広島の原爆ドームにも行ってます。平和記念資料館でかなりのショックを受けた記憶もあります。そして毎年この式典を見ていて、世界平和を念じていました。
それに嘘はありません。
しかし、自分の中でどこか遠く、それが他国とは思いませんが、遠い歴史の世界と同化していたかも知れません。
阪神・淡路大震災でも、とても気の毒だと思いましたが、被災地に行ったのが大震災から3年経ってからでした。やはり理解はできても、現実感では無かったようです。
私だけでは無いようです。どうも日本人は、こういったことに、どこか他人事なのです。
私自身、東日本大震災を被災地で経験して、はじめて現実感を持って、阪神・淡路大震災が再確認できた気がしますし、原爆の放射能が再確認できた気がします。
私はやっと現実感を持って発言ができるようになりました。また発言することは、実感を持った人間の義務だと考えています。
今年もたくさんの国が参加してくださいましたが、その国々は相変わらず原爆を持っていますし、紛争も抱えています。この毎年の平和の式典も、参加者でさえ形骸化しているかも知れません。
私も、これまでは「原子力爆弾と原子力発電はまったく違うもの」と考えておりました。
「発電は平和利用なのだから兵器とは違う」と考えておりました。
しかし3.11以降、「戦争に使うことはもっての外で、これは平和利用だから・・・」という言い訳はできないものだと、理解しています。
今回は、想定外な不幸な事故ではありません。そもそも「想定外ということが起こったと言うことは能力の範囲外であるということ」です。
原子力は、「使うor使わない」ではなく、「使えない」のです。
世界で唯一の被爆国、そして今回原子力発電で世界でも希有な被爆体験をした国である日本こそが、心から「原子力廃絶」を世界に訴えることができる唯一の国の筈です。
原発が止まって若干経済活動が鈍ることは覚悟しましょう。
それでも、衣食住が無くなるほどの貧乏にはなりません。
しかも、すぐに戻るはずです。
しかも、すぐに戻るはずです。
日本人はあらゆることで贅肉を付けすぎていました。
社会も経済も、日本人の精神も、ちょうど良いダイエットになると思います。
広島の平和記念資料館の後に、現在の福島や宮城岩手の被災地に来てください。
本当の幸せは何か、身に染みて再発見できると思います。